【漢文】荀子と性悪説について 動画 YouTube
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孟子の性善説と荀子の性悪説
『都市国家から中華へ(殷周 春秋戦国) (中国の歴史 2)』 平勢隆郎/著 講談社 2005年発行
戦国時代の学術 より
先に、「戦国時代」という名称を問題にし、われわれは必要以上にこの言葉にふりまわされていることを述べた。
実のところは、新石器時代以来戦争は絶え間なく引き起こされている。平和な世だと理想化されてきた夏・殷・周3代の世も、その実、理想とはかけはなれた時代であり、戦乱の時代だったのである。
しかし、そうした架空の説明とは別に、やはり、戦国時代(前770〜前221年)は特徴的な時代であることを論じなければならない。
それはまず、この時代が春秋時代中期以後に始まった鉄器の普及によって、未曽有の社会変動を経験していることによる。
鉄器の普及は、農地を急増させ、都市を増加させ、その都市の人々の秩序を激変させた。周から伝播してきた文字は、「史」という文字書きが扱い、都市国家相互のとりきめの確認などに使用していたのだが、大国中央とのやりとりの道具としての使用が始まる。都市国家は滅ぼされて、派遣された官僚の統治下にはいり、「史」は再編されて中央や地方の属吏となっていく。文書行政は官僚がとりしきるようになり、それをささえる法整備(律令の編集)が進んだ。
春秋時代は「史」の時代であった。「史」は祭祀を司る官で文字書きを担当する者であった。それが、戦国時代には、官僚の時代になる。「史」はその職能をかわれて文書行政を支える官吏や属吏となった。その官僚の中から、国家を動かす議論をまとめる者たちが出現する。それが諸子(しょし)である。
諸子百家という言葉がある。諸子が様々な思想を説いたという理解をもって語られる言葉である。
官僚による地方統治が始まってから、諸子が出現することを述べたばかりだが、この種の統治が始まることで、各国にいた「史」は再編され、祭祀官としての「史」は終焉する。だから、諸子の議論は、祭祀官としての「史」の時代には遡らない。諸子が「天下」を語る議論は、官僚統治を基礎とし、戦国時代にできあがった理論を縦横に駆使する。九・六・八、天・地・人・陰陽五行、周易、いずれを論じても、戦国時代にまとまった議論である。淵源はそれぞれ遡ることができるが、諸書に議論されるような「形」ができあがったのは戦国時代である。
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では、戦国時代にたくさんの書物ができあがったということを前提に、諸子の議論を進めていいのかというと、これも相当に問題がある。
たとえば、諸子百家について、われわれは、特徴ある思想を述べた様々な人々がいた、と理解しているはずである。
ところが、こうした理解は、大きくは宋明理学と称される学問体系の下でなされたものである。科挙官僚たる天下の士大夫(したいふ)が、みずからの先駆として論じた諸子理解である。それが、朝鮮李朝や我が国江戸時代の諸子理解に大きな影響を及ぼした。ところが、それとは異なる理解が、時代をはるかに遡った後漢時代に示されていたのである。
後漢の王充によれば、孟子は中人以上を述べ、荀子は中人以下を述べたという(『論衡』本性篇)。後漢時代の認識が『漢書』(後漢時代に前後漢時代をまとめた史書)の古今人表に示されているが、古今の人を上上聖人・上中仁人・上下智人・中上・中中・中下・下上・下中・下下愚人の9等に分かつ。これらを3つにまとめなおせば、上人・中人・下人となる。この中人以上について性善をとなえたのが孟子、中人以下について性悪をとなえたのが荀子だというのが王充の説明であった。これに沿って述べれば、道家は上人のみを語り、法家は中人以下を管理しようとした(徹底すれば上人までいく)、ということになる。眼目とする階層が異なれば、諸子の言説は、互いを補完しつつ共存することができる。
王充の上人・中人・下人に関するまとめは、従来の理解が的を射たものではないことを教えてくれる。孟子の性善説と荀子の性悪説が同じ人の性の理解として対立していたのではない。孟子は中人以上を論じ、荀子は中人以下を論じていて、どの階層に焦点を当てるかが異なっている。同じ国家に両者の議論が混在することも可能であり、いわば「棲み分け」の議論をしていたのである。