じじぃの「科学・芸術_624_古代中国・青銅器銘文」


漢委奴国王印

都市国家から中華へ(殷周 春秋戦国) (中国の歴史 2)』 平勢隆郎/著 講談社 2005年発行
漢字の魔力 より
漢字は殷王朝で使われていたことがわかっている。そしてそれが周王朝に継承されたこともわかっている。
周王朝は、青銅器に銘文を鋳込む技術を殷王朝から継承すると、その技術を他にもらさなかった。その上で、諸侯に銘文入りの青銅器を賜与する。賜与された方は、漢字の意味がわかるわけではない。しかし、代々賜与されていると、だんだん漢字になじんでくる。しかし、なじんでも、それを青銅器に鋳込む技術は会得していない。会得していないから作れない。青銅器は作れるが、銘文は鋳込めない。
銘文内容は周王朝を頂点とするものであった。その内容を記した青銅器が、代々諸侯に配布された。
西周の終わりに、周王朝の王都一帯は混乱に陥り、王の工房の技術者たちは各地に離散した。こうして、青銅器に銘文を鋳込む技術は、いっきに各地に伝播した。
すでに漢字になじんでいた各国では、漢字をわがものとして使い始めた。広域的漢字圏ができあがったわけだが、各国の側から見れば、漢字が理解できない時代から代々賜与された青銅器が残されている。かなりの数、墓に埋められてしまったが、それでも残されている。自分のものとなった漢字力をもってそれらを整理すると、周王朝がえらいという内容を代々確認してきたわけで、理解すればするほど、周王朝の権威は高まった。
軍事力という意味からすれば、周王朝の勢力は衰えたのである。しかし、漢字の理解力は背景とする権威という意味では、周王朝の権威はかえって高まったのである。それが春秋時代春秋戦国時代 前770〜前221年)である。
代々青銅器を賜与されていた諸侯は、主として河南一帯から山東にかけての諸国である。これら間では、周王朝を第1とする認識はなかなか払拭することができなくなった。漢字の魔力に支配されたわけである。
      ・
古墳時代にさきがけて我が国には漢字がやってきた。代表例が「漢委奴国王(かんのいとこくおう)」と記された金印である。しかし、この「漢委奴国王」は中国側が表現した漢字である。
邪馬台国の時代に、大和の政権が、鏡を各地に賜与したことが議論されている。これは西周が青銅器を賜与したのと似ている。鏡を与えられた国々で、漢字がよめたわけではないのも同じである。
しだいに漢字に慣れ親しんでくる点も同じである。
古墳時代には、銘文入りの鏡が我が国でも作られた。しかし、中国の鏡を模して作ったので、必ずしも漢字を理解していない。鉄剣に銘文を表現することも始まったが、大和朝廷を中心とする理解が示されているようである。系譜など簡単な内容を記している点は、西周時代の金文の内容の一部に類似する。
飛鳥時代には、漢字の理解力はかなり深まる。こうなると春秋時代と比較して共通した社会を論じることができる。さらには仏典がやってきたから、その理解を通してぐっと高度な文字社会に突入していく。
白鳳時代を経て、律令制定の議論が煮詰まる。これは戦国時代と比較して共通した社会を論じることができる。
ただし、以上の議論において、注意しなければならないことがある。同じ漢字だといっても、戦国時代の諸国の言語は、やがて漢語に同化する言葉である。これに対し、日本の言葉は、漢語とは大いに異なる言語である。言葉の障壁が比較にならないほど大きかった。単純な比較ができるわけではないことは言うまでもない。