じじぃの「科学・芸術_605_明代・日本銀の登場(石見銀山)」

わかる歴史【室町時代倭寇日明貿易 動画 YouTube
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  石見銀山

しまねバーチャルミュージアム 石見銀山
16世紀に石見銀山の開発が始まった背景には、東アジアでの銀の需要の高まりがありました。
当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
一方、日本の周防の国に大内氏という大名がいました。 大内氏は博多の商人と結び、中国と貿易を独占的に行っていました。 その商人の中に神谷寿禎という人物がいて、彼は中国で銀の需要があることを耳にしていました。
17世紀前半になると日本での銀生産は年間20万㎏にのぼり、世界の銀生産量の3分の1に相当しました。
http://www.v-museum.pref.shimane.jp/special/vol06/history/index.html
『海と帝国-明清時代 (中国の歴史 9)』 上田信/著 講談社 2005年発行
商業の時代――16世紀 より
1520年代、中国では嘉蘘年間の初期、日本では大永年間、博多の商人神谷寿禎は、銅を買い付けるため出雲に向かう船に乗り込み、日本海を航行していた。船上から見るともなく陸に目をやると、山の中腹が輝いて見える。そこで神谷は大永6年(1526)に技術者とともにその場所に向かうと、地表に露出したおびたたしい量の銀鉱石を発見したと伝えられている。
それが石見銀山である。天文2年(嘉蘘12年、1533)、博多より、宗丹・桂寿という朝鮮人の技術者が石見銀山に派遣され、大陸の精錬技術であった灰吹き法が導入された。
日本の歴史著述には、灰吹き法を当時の最先端技術と記すものが少なくない。しかし。金・銀を銅などの酸化しやすい卑金属から分離する灰吹き法の原理は紀元前2500年ごろにはすでに西アジアで知られており、中国では後漢の文献に記載されている。その工程は、まず銀鉱石と鉛を溶かして合金を作り、その合金を炉内に敷いた灰の上に載せ、炉内を熱する。酸化した金属は表面張力が弱まる。高温になると酸化した鉛は卑金属を取り込んで、ともに灰に吸収されるが、酸化されにくい銀は灰に吸収されずにコロコロと灰のうえで玉となり、冷却すると銀塊として残る。
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石見銀山の発見と灰吹き法の導入を境に、日本における銀の産出量が増大し、それまで銀を輸入していた日本は、一転して銀の輸出国となる。この時代に、石見を含む北陸を守護として勢力下に収めていたのは、大内氏戦国大名大内義隆)であった。博多商人の神谷一族は、その大内氏支配下で、明との貿易に携わるようになる。中国に流入し始めた日本銀は、東ユーラシアの交易に大きな変化をもたらした。
15世紀なかばを過ぎるころから、中国の財政と経済は銀なくしては循環できなくなっていた。どこからか銀が大量に供給されたために、こうした変化が起きたのではない。14世紀にに編成された里甲制・衛所制・開中法といった諸制度に矛盾が生じ、国家の側が銀を用いて運営せざるを得なくなったところに、原因を求めることができる。
15世紀には浙江や雲南などで銀山の開発が進んだが、その産出量では帝国が必要とする銀をまかなうことはできなかった。16世紀初頭には、朝鮮から中国に銀が向かった。それでも必要量をまかなうことはできなかった。事態がそのまま進めば、東ユーラシアの交易は失速し、朝貢カニズムの枠組みに支えられて細々と続けられるのに終ったことだろう。
危機的な状況のもとにあった16世紀の30年代に、日本が銀の一大供給地として現れたのである。日本は銅銭や生糸などの中国物産を必要とし、中国は日本の銀を渇望していた。ところが寧波の乱以降、明朝は日本から来航した船舶を厳重に警戒し、朝貢にともなう交易にもそれまで以上に強く制限を加えるようになった。だが、交易の奔流は、もはや帝国の力で抑えることはできなかった。中国と日本とのあいだの交易は、朝貢カニズムを越えて民間の武装した海洋商人によって担われるようになる。