じじぃの「科学・芸術_604_アダム・スミス『道徳感情論』」

What is Compassion? 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9-UZ0hn_Tpc
  共感

道徳感情論 (日経BPラシックス) 2014/4 アダム・スミス (著), 村井 章子 (翻訳), 北川 知子 (翻訳) Amazon
アダム・スミス道徳感情論』新訳である。その冒頭ーー。
「人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる」。
スミスといえば、利己心が市場経済を動かすという『国富論』の記述が有名だが、スミスの『国富論』に先立つ主著である『道徳感情論』では、他者への「共感」が人間行動の根底に置かれる。

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『幸福とは何か - ソクラテスからアラン、ラッセルまで』 長谷川宏/著 中公新書 2018年発行
共感と道徳秩序――アダム・スミス より
共感道徳感情の土台に据えるアダム・スミスの道徳論は、個を基本単位とする近代思想とは趣を異にする論法を取るものといえる。道徳のなりたつ場が個の存在の内部にあるのではなく、個と個のかかわる集団のうちにあるとするのだから、アダム・スミスにとって、道徳ないし道徳感情は、個が単独の個としてある抽象の場でとらえられるべきものではなく、個と個がたがいに行き来し、濃くまた浅く、近くまた遠い、さまざまの関係を結ぶ日常の場でとらえられねばならないものだった。
大胆にして斬新な場面設定だといわねばならない。個がみずからの内面で思いめぐらす観念やら良心やらのうちに道徳感情が芽生えるのではなく、人びとが出会い、顔を見合わせ、ことばを交わし、ときに意気投合し、ときに反発し対立する日々の暮らしのなかでこそ道徳感情は芽生えるとスミスは考える。ここでは、個々の経験が人びとにとって自然な、身近なものとして肯定されているだけでなく、人びとの共に暮らす社会が、人びとにとって自然な、身近なものとして肯定されている。
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人間が他人のなかで他人とともに生きていく社会的動物であることは、もの心ついた人間ならだれしもが抱く実感だ。他人のことが気にかかり、ときに抑えきれないほどに人恋しさが募り、ときに人の存在が耐えきれないほどに厭(いと)わしく思えるのが人間の暮らしのありようだ。スミスの文はそうした人間の生きざまを他人の感情の交流という面から明らかにしようとしたものだ。
なにより目を惹くのは、他人との交流なくしては人間の感情が――延(ひ)いては人間の思考や判断も――外へと広がっていく可能性がないとされていることだ。人間の心の動きをかりに知・情・意の3つに分けて考えるとすれば、知も情も意も社会のなかで、他人との交わりのなかで芽生え、成長し、発展していくというのが、スミスの人間観の根本をなす。いや、心の動きだけではない。『道徳感情論』でははっきりそうといわれているわけではないが、論の赴くところ、人間の体の動きも社会のなかで、他人との交わりのなかで芽生え、成長し、発展していくというのがスミスの確信だったと思える。
さきの引用文中に、頭のなかだけの観念的実験に近いものとして、「孤独な場所」とか「生まれてこのかた社会に縁なき人」とかが設定されている。いかにも寂しげな、寒々とした、空疎な、生命力の乏しい場所であり、人だ。力のこもらぬ、素っ気ないその記述法からして、そんな場所や人をスミスが実際に見たのではなく、社会のなかで他人とかかわって生きている人びとの物質的・精神的な生活の全体から社会的要素をぬき取った抽象的な像がそこに提示されたと考えるが、その像の貧相さ、無気力さ、味気のなさがかえって、スミスのとらえる人間が社会のなかでこそ物質的にも精神的にもゆたかに生きる存在であることを思わせる。社会と縁のない孤独な生活とは、スミスにとって、生の可能性を大きく封じられた、非人間的な生活にほかならなかった。
共感道徳感情の根幹におき、人びとのなかで人びとと共に生きることが道徳的に生きることだとするスミスの議論は、こうして、共に生きていくことが人間的にゆたかな生き方であり、生き生きとした、幸福な生きかたであるというところまで視界を開いていく。人とつながり、人と交わり、人と共感することは、人間として正しく生きていくことに通じる道であるとともに、人間としてしあわせに生きていくことに通じる道でもあった。共感の感覚ををしっかりともちつづけ、共に生きる人びとの顔つきと態度を鏡としておのれの生きかたを見直し調整し按配していくなかで、人の暮らしは道徳性と幸福の度合いをともども高めていくと考えられた。