じじぃの「神話伝説_176_神は妄想である・新十戒」

The Ten Commandments 2007 Full Movie HD 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=pruiRbLdEWE
十戒

『世界を変えた100日 - 写真がとらえた歴史の瞬間』 ニック・ヤップ/著、村田綾子/訳 ナショナルジオグラフィック社 2008年発行
1913年6月8日 ある女性運動家の抗議死 より
エミリー・デイビソンは1872年、英国ビクトリア朝時代の中流階級の家庭に生まれた。オクスフォード大学に入学したが、当時は女性に学位は与えられなかった。これが、デイビソンが政治活動に足を踏み入れる遠因となったのかもしれない。1906年、彼女は「婦人社会政治同盟」に加盟し、女性の選挙権を訴えた。
それから6年のあいだに、デイビソンは数度逮捕されている。器物損壊と女性の参政権に反対しているとみた人びとへの傷害罪だ。ハンストをおこない、ロンドンの刑務所にいるときは、階段から9メートル下の針金格子に身を投げ、背骨に一生残る損傷を負っている。
1913年の夏のある日、デイビソンは鉄道の往復乗車券を買い、民衆にとっても王室にとっても一大イベントである、競馬のダービーがおこなわれるエプソム競馬場へ向かった。婦人参政権を訴える旅を携えたデイビソンは、最後の直線に入る手前のカーブに陣取る。馬がカーブにさしかかったとき、デイビソンは国王ジョージ5世の持ち馬の前に飛び出した。馬はデイビソンを地面に打ち倒し、さらに後続の馬が彼女の体を踏みつけた。
デイビソンは病院に運ばれ、4日後に頭蓋骨骨折で死亡した。多くの人は、情緒不安定で過酷な活動家の衝動的行動として片づけようとした。しかしデイビソンの死の抗議は、女性の権利を訴えてきた人々の決意をかため、新たな活動家を生んだ。5年後、ついに女性参政権が認められた。

                        • -

『神は妄想である―宗教との決別』 リチャード・ドーキンス/著、垂水雄二/訳 早川書房 2007年発行
「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神 より
聖書の話題を終える前に、その倫理上の教えのなかでもとりわけ嫌な側面について、注意を喚起しておかなければならない。『旧約聖書』と『新約聖書』の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されるべく意図されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど意識していない。「汝の隣人を愛せよ」は、私たちが現在考えているようなことを意味するものではなかった。それは、「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。この点は、アメリカ人医師で進化人類学者のジョン・ハートゥングによって、衝撃的な形で論証されている。彼は、内集団の進化と聖書における変遷について、その裏の側面――外集団への敵意――にも重点をおきながら、1つの注目すべき論文を書いたのだった。
      ・
本章は、いかに好意的な見方で臨もうとも、私たちが――宗教を信じる人間でさえも――道徳上の判断を下す根拠は聖書からは得られないと示すことから始まった。それならば、私たちは何が正しくて何がまちがっているかを、どのようにして判定するのだろう? この疑問にどう答えるかにかかわらず、私たちが事実の問題として、正しいあるいはまちがっているとみなすものについては意見の一致が、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在する。この見解の一致は、宗教とは明白な結びつきをもたない、けれどもそれは、本人たちが自らの道徳が聖書に由来すると考えていようといまいと、信仰をもつ人々にまで及んでいる。アフガニスタンタリバンや、アメリカでそれに相当するキリスト教原理主義者という顕著な例外はあるが、大部分の人間は、倫理上の原則に関する、同様に幅広く行き渡ったリベラルな見解の一致に対して、口先だけの合意はする。私たちの大多数は、不必要な災禍を引き起こそうとはおもわない。私たちは言論の自由を信じ、たとえ言われている内容に同意できない場合でも擁護する。税金を払い、人を騙さず、人を殺さず、近親相姦に走らず、自分がしてほしくないことは他人にしない。こうした善行に関する原則の一部は聖書に見いだすことができるが、それはまともな人間なら疑いたくないと思うようなことと一緒に埋め込まれている。そして聖書は、善行に関する原則を悪行に関する原則と区別するためのいかなる基準も提供していない。
私たちが共通して備えている倫理観を表現する1つの方法として、「新十戒として表すことがある。さまざまな個人や機関がそれを試みてきた。ここで重要なのは、それらが互いにかなりよく似た結果を生みだす傾向があり、つくりだされたものが、その立案者がたまたま生きていた時代に特徴的なものになっていることである。次に示すのは現代の「新十戒」の1つで、私がたまたま無神論者のウェブサイトで見つけたものである。
・自分がしてほしくないと思うことを他人に対してするな。
・あらゆる事柄において、人を傷付けないように務めよ。
・あなたの仲間である人類、あなたの仲間である生物、そして世界全般を、愛、親切、誠実および敬意をもって扱え。
・悪を見逃さず、正義を執行することにひるむな。しかし、進んで認め、正直に後悔しているならば、いつでも悪事を許す心構えをもて。
・喜びと驚きの感覚を持って人生を生きよ。
・つねに何か新しいことを学ぶように務めよ。
・あらゆる事柄を検証せよ。つねに、あなたの考えを事実に照らしてチェックし、どんな大切な信念でも、事実と合わなければ捨てる心構えを持て。
・けっして反対意見を検閲したり、耳を傾けることを拒絶したりしてはならない。つねに他人があなたに反対する権利を尊重せよ。
・あなた自身の理性と経験をもとにして独立した意見をつくれ。むやみに他人の意見に導かれることを許してはならない。
・あらゆることに疑問を発せよ。
      ・
私自身の修正版十戒では、前出のうちのいくつかを選ぶだろうが、とくに以下の項目は付け加えたいと思う。
・あなたの性生活を(ほかの誰にも危害を及ぼさないかぎり)楽しみ、他人が個人的に楽しむのを、それがいかなる性癖であろうと、ほうっておくこと。それはあなたに関係のないことだから。
・性別・人種・あるいは(可能な限り)生物の種のちがいをもとにして、差別や抑圧をしない。
・子供を教化しない。子供には自分で考える方法、証拠を評価する方法、あなたに異議を唱える方法を教えよ。
・未来を自分の持つ時間のスケールよりも大きなスケールで評価せよ。
とはいえこのあたりの優先順位のちがいは小さなことなので、気にする必要はない。肝心なのは、私たちほとんどすべてが、聖書の時代以来、大きな道のりを歩んできたということである。奴隷制は、聖書の時代および歴史の大部分を通じて当然のことと受けとめられてきたものだが、文明国では19世紀に消滅した。選挙および陪審員としての女性の投票権は、1920年代まで広い範囲で否定されていたが、現在ではすべての文明国が男性と同等の権利を認めている。現代の文明化された社会(ここには、たとえばサウジアラビアは明らかに含まれていない)では、、女性はもはや財産とはみなされないが、聖書の時代は明らかにそうだった。現代のいかなる法体系も、それをアブラハムに適用すれば、彼は児童虐待の罪で罰せられることだろう。そしてもし彼が実際にイサクを犠牲にするという計画にうつせば、私たちは彼に第1級殺人罪を宣告していただろう。しかし、当時の慣習に従えば、アブラハムの行為は全面的に賞賛すべきもので、神の戒律に従っていただけのことなのである。かように、宗教を信じていようといまいと、私たちは誰しも、何が正しくて何が悪いかという態度において大きな変化をとげてきた。この変化はどういう性質のものであり、何がその原動力なのだろうか?
どんな社会にもどことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが数十年単位で変化する。それに対して、べつに気どるつもりもないが、ドイツ語から借用した時代精神という言葉をあてようと思う。私は先ほど、婦人参政権が世界の民主主義国においていまや普遍的であると述べたが、この改革がなされたのは実際は驚くほど最近のことなのである。