じじぃの「科学・芸術_588_傘殺人事件・トウゴマ種子」

Umbrella fired fatal ricin dart 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rZO5Lf8wD_c
ひまし油植物の種子 (リシン)

米大統領を狙った猛毒リシンとは 2013.04.18 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
今月、アメリカのバラク・オバマ大統領(17日)とロジャー・ウィッカー上院議員(16日)に、リシンの付着した郵便物が送り付けられ、リシンという毒物に注目が集まっている。 リシンがニュースの見出しになったのは、これが初めてではない。1978年に、ブルガリアからイギリスに亡命したゲオルギー・マルコフ氏がロンドンで暗殺される事件が起こった。このとき犯人はマルコフ氏に近づいてきて、リシン入りの小さな弾丸を発射するよう改造した傘でいきなり突き刺した。
リシンは天然に存在する毒物で、東アフリカからインドが原産とされるトウゴマ(学名Ricinus communis)の種子に含まれる。トウゴマは別名ヒマ(蓖麻)と呼ばれ、その種子から採った油は「ひまし油(蓖麻子油)」として古くから利用されてきた。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7860/
『種子ー人類の歴史をつくった植物の華麗な戦略』 ソーア・ハンソン/著、黒沢令子/訳 白揚社 2017年発行
傘殺人事件 より
橋の南側のバス停を通り過ぎたとき、ゲオルギー・マルコフ(ブルガリア出身の作家)は右の腿(もも)に突かれたような感じがしたので、振り返ると、男が身をかがめて傘を拾おうとしていた。その見知らぬ男は詫びらしいことを口ごもり、近くにいたタクシーに手を挙げて乗り込むと、行ってしまった。職場(BBC)に着いて、腿を見ると小さな傷があり、血がにじんでいた。マルコフはそのことを同僚に話したが、それ以上気にはかけなかった。しかし、その晩遅く、急にひどい熱が出たので、マルコフはバス停で出会った見知らぬ男のことを妻に話した。2人はマルコフが毒を塗った傘で刺されたのではないかと思い始めた。しかし、実際に起きたことはもっと奇想天外なことだった。
「傘型の銃は、Qの研究所に相当するKGBの部署で開発されたものですよ」と。マーク・スタウトはジェームズ・ボンドの映画で一躍有名になったスパイの秘密兵器を開発している架空の研究所を持ち出して説明した。しかし、爆発する歯磨きや火を吹くバグパイプはハリウッドで活躍する小道具で、現実の諜報活動では奇抜な武器が使われることはめったにないそうだ。「銃や爆弾といったローテク凶器の使用がほとんどですね。傘型の銃と発射された極小弾は、当時の工学技術の枠を集めたものでした」とスタウトは続けた。
     ・
マルコフはロンドンの病院で急性敗血症と思われる症状でじきに死亡したが、1978年当時は病理学者が頼れるスパイ博物館や歴史家がいなかったので、その症状を引き起こした原因がわからなかった。解剖の結果、腿に炎症を起こした小さな傷痕が見つかったが、虫に刺された傷のように見えて、突かれた傷とは思えなかった。体内に入った謎の弾丸はX線写真に写っていたのだが、きわめて小さかったので、レントゲン技師はフィルムの傷だと考えて無視してしまったのだ。したがってブルガリアから亡命した別の人物が名乗り出て、似たような事件があったことを話さなかったら、死因の究明はそこで打ち切られてしまったかもしれない。
     ・
最初の問題は、マルコフの体に入った毒の量を特定することだった。腿から取り出された直径1.5ミリにも満たない弾丸には、精緻な穴が2つあけられており、推定450マイクログラムの毒物を仕込むことができた(わかりやすくいうと、紙にペン先を軽く押し当てるとこの弾丸くらいの大きさのインクの染みができるが、そこに開けられた穴を見るには顕微鏡が必要だ)。この容量から、使用された毒が数種類の猛毒に絞り込まれた。ポツリヌス菌やジフテリア菌、破傷風菌のような病原菌の毒素は真っ先に候補から外された。こうした病原菌は特有の症状や免疫反応を引き起こすからだ。プルトニウムポロニウムなどの放射性同位元素も条件に合わなかった。死をもたらすにしても、もっと長い時間を要するからだ。ヒ素タリウム神経ガスサリンにもこれほど強い毒性はない。コブラ毒も似たような症状を引き起こすが、少なくとも2倍の分量が必要になる。マルコフに見られた症状を呈しつつ、あれほど速く死をもたらす毒は、種子に含まれている毒以外にはありえない。
死刑執行人や暗殺者は何千年もの間、種子の毒を利用して役目を果たしてきた。植物界には多種多様な毒物が見られるが、種子には貯蔵がしやすく、効き目が大きいという利点がある。ソクラテスが呷(あお)った毒はドクニンジンの種子からとられたものだし、アレクサンドロス大王が死んだのはバイケイソウの種子の毒のせいだという疑いも出ている。マチンという高木の丸く平たい種子はストリキニーネを含み「嘔吐を催すボタン」という名がつけられるほど不味い。これまでにこの種子からとられた毒によって、トルコの大統領からヴィクトリア朝時代に連続殺人を起かしたトマス・クリーム医師が手にかけた若い女性たちに至るまで、数多くの犠牲者が出ている。マダガスカルや東南アジアでは、塩性湿地に生えるその名も「自殺の木」と呼ばれているミフクラギの実のせいで、毎年何百人もの人が命を落としている。シェイクスピアも、ハムレットの父が耳の中に毒薬を注ぎ込まれて暗殺される場面で、種子の毒を用いている。「蒸留精製された劇薬」と表現されている毒はナス科のヒヨスの種子から抽出されたものだろうということで、研究者の意見はほぼ一致している。また推理小説マニアには知られていることだが、シャーロック・ホームズとワトソンが危うく犠牲になるところだった「悪魔の足」という毒物は、西アフリカ原産のカラバルマメという防毒を持つ種子がモデルとなっている。こうした植物の毒はどれもアルカロイドだが、マルコフの暗殺に用いられた毒として、致死性がもっと高く、突き止めるのが困難な珍しい毒素が、じきに捜査線上に浮かんできた。それはカストロール・モーター・オイル社の「ただのオイルではない」という宣伝文句が意図せずに言い当てている物質である。
カストロール社は、最初はアフリカ原産のトウダイグサ科の多年生低木であるトウゴマ(ヒマ)の種子を原料としたエンジンオイルを製造していた会社で、社名のカスターもトウゴマの英語名をとったものだ。
     ・
理論的には、マルコフの足から回収された弾丸には、マルコフの全細胞を何回も殺せるほどの分量のリシン(猛毒タンパク質)が入っていたと思われる。しかし、裏付けとなる肝心の証拠はほとんどなかった。抗体ができる間もなく急死してしまっただけでなく、リシンが猛毒だということは知られていたが、中毒死の記録は皆無に等しく、中毒症状の臨床記録もなかったからだ。そこで、病理学者は実験を行うことにした。トウゴマ種子を入手してリシンを抽出し、豚に注射したのである。豚は哀れにも、26時間以内にマルコフと同様な痛ましい症状を呈して死亡した。