じじぃの「科学・芸術_587_マサダ砦・ヤシの種子」

Masada 1981 Part1of4 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EY7L-vDuhhE
Masada date tree resurrected from 2,000 year-old seed 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JTduYZypFaU
マサダ

ベラルーシの林檎 岸恵子/著 朝日新聞社 1993年発行
マサダ より
東洋のはずれ、ユダ砂漠のはずれ、ここから西洋がはじまろうとする死海のほとりに、マサダの砦跡は、峨々として果てしない周囲の連山からひときわ抜きん出るようにして立っていた。
高さからすれば数百メートルにすぎないのだろうが、垂直の絶壁、猛々しく厳しいその野生が、私になぜとはなく、ドレフュス大尉が流されたという悪魔島を連想させた。
2000年前は登山不可能だったといわれる。死海側から山頂にかけて、細く、ただ1本あった「蛇の道」が、今はユダヤ巡礼者や観光客のため登りやすく足がためされ、途中まではケーブルカーさえある。
ローマ軍が3年かけて登頂し攻め立てた。難攻不落と言われた城塞に、ケーブルカーや、わたり綱のついた階段を登ってあっという間に到着してしまうあっけなさが、2000年という時の流れのむなしさや、偉大さを感じさせた。
「なんだか……凄いですね」
堀川さんがぽつりと言った。そのひと言が、ここはもと、建築王と言われたヘデロの、天然の要塞を兼ねた壮大な宮殿であったことに想いを馳せさせてくれる。
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紀元前66年に蜂起したユダヤ叛乱の第一次戦争も、ソロモンの神殿が炎上し、エルサレムが陥落し、この砦に籠った残党が、3年もローマの大軍に抵抗し、もはやこれまでと覚ったとき、「泥水すすり草を食(は)み……」と約2000年後の日本軍がアメリカの大軍の前に屈したように、「イスラエルは敵に降せず、死して罪過の汚名を残すことなし」と960人が自決して、「マサダ魂」を後世に残したのだった。

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『種子ー人類の歴史をつくった植物の華麗な戦略』 ソーア・ハンソン/著、黒沢令子/訳 白揚社 2017年発行
メトセラのような長寿 より
ローマの将軍フラウィウス・シルウァは正規の軍団の他に数千人に上る奴隷や随員も引き連れて、紀元72〜73の冬にマサダ砦に麓に到着した。そのとき将軍がどう思ったか、歴史書には記されていないものの、マサダ砦を見たことのある人ならきっと想像がつくだろう。「何てこった!」と思ったに違いない。
砦は四方を見渡せる切り立った320メートルの岩山の上にあり、砲台で防備を固めた城壁、監視塔、大量の武器を備えていた。しかも、砦に至る唯一の通路は「蛇の道」という不気味な異名を持つ曲がりくねった険しい山道だけだった。さらに、マサダ砦に立てこもったユダヤ人の集団はとりわけ過激なシカリ派に属していた。ちなみに、シカリという呼び名はその一派が敵を殺すのに使っていた恐ろしい短剣に由来する。砦を包囲するローマ軍は過酷な岩石砂漠で野営せざるをえないが、反逆者たちはマサダを改築したヘロデ大王好みの宮殿や離宮を自由に使えることに、将軍は気づいていたはずだ。
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ローマ軍はマサダ砦に入ったとき、戦士たちが短剣を振りかざして襲いかかってくるものと思っていた。しかし、実際には不気味な静けさが漂っていた。籠城していた1000人近いシカリ派は、降伏したり、捕虜になることを嫌って、女子供も含めて集団自決していたのだ。シカリ派の抵抗と犠牲は、ユダヤ人にとって伝説的といえる忍耐の象徴となった。後に、イスラエルの指導者は国家建設の準備段階で、マサダの闘いを民族の結束と決意を示す象徴とした「蛇の道」を歩いてマサダに登ることがボーイスカウトや兵士の通過儀礼になってから数十年になるが、今やマサダイスラエルで最も人気のある観光地になっている。シルウァ将軍が現代のマサダを訪ねたら、頂上までケーブルカーで登り、「マサダは2度と陥落しない」と書かれたTシャツやコーヒーカップを目にすることだろう。
コインの収集家と種子の専門家にとっては、マサダに立てこもったユダヤ人たちは、ローマ軍に対して抵抗したことよりも、後に残したものによって記憶に残ることになった。シカリ派は自決する前に、ローマ軍に金目のものを持っていかれないように、持ちものと食料を中央倉庫に移して、建物に火を放った。建物の梁や垂木が燃えたとき、石壁が内側に崩れ落ちたため、その下敷きになった倉庫内の品物は2000年近くの間、手つかずのまま残されることになった。
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マサダ遺跡から出土したナツメヤシは、博物館の専門家による一連の洗浄・分類作業を経て目録が作られたのだが、それから40年して、そのヤシの種子を植えてみようと思いついた人が現われたのだ。
「胸が高鳴ったなんてものではなかったわ」と、エレイン・ソロウェイは2005年の春に植木鉢の土の中から1本の芽が出ているのに気づいたときのことを思い出しながら話してくれた。イスラエル南部にあるネゲブ砂漠のキブツで農業の研究をしているソロウェイ博士は、「マサダナツメヤシを植えるまでにも、研究の一環として「何十万本にも上る樹木」を植えてきた。「実をいうと、芽が出てくるとは予想もしていなかったわ。あそこの種子が生きている可能性は万に1つどころか、絶対にないと思っていたからよ」と博士は正直に認め、ヤシの種子を植えることを思いついたのはサラ・サロンだと共同研究者に花を持たせた。