じじぃの「科学・芸術_546_文明・シュメールの都市ウルク・ウル」

Mesopotamia - The Sumerians 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FokczN6Fb3A
トリポリ

Sumerian Civilization

『馬・車輪・言語(上) ─文明はどこで誕生したのか』 デイヴィッド・W・アンソニー/著、東郷えりか/訳 筑摩書房 2018年発行
印欧祖語の原郷の場所―言語と場所 より
本章は印欧祖語の原郷の場所について、言語学的な証拠を挙げてゆく。この証拠は私たちを、踏みならされた道を通って馴染み深い目的地へと連れてゆくだろう。今日のウクライナとロシア南部に相当する黒海カスピ海の北にある草原であり、ポントス・カスピ海ステップとしても知られている場所だ。マリア・ギンブタスやジム・マロリーをはじめとする一部の学者は、過去30年にわたってここを原郷とする説得力のある主張をしてきた。それぞれいくつかの重要な細部が異なる基準を用いているが、多くの点では同じ根拠から同じ結論に達している。近年の発見は黒海カスピ海仮説をいちじるしく強化したもので。ここが原郷であるという仮説は無理なく推し進められる、と私は考える。

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『馬・車輪・言語(下) ─文明はどこで誕生したのか』 デイヴィッド・W・アンソニー/著、東郷えりか/訳 筑摩書房 2018年発行
メソポタミアとステップの関係 より
ステップとメソポタミアの文明との接触はもちろん、トリポリの社会との接触にくらべればずっと間接的なものだったが、南側の扉はステップに車輪付きの乗り物を最初にもたらした街道であったかもしれず、したがって重要なものだった。南方とのこうした接触に関する私たちの知見は近年、完全に塗り替えられてきた。
前3700年から前3500年にかけて、世界最初の都市がメソポタミアの灌漑された低地に出現した。ウルクウルなど、古い神殿のある中心地は、建設プロジェクトのためにイラク南部から何千人もの作業員を集めることができたが、彼らがなぜ神殿の周囲に恒常的に住み始めたのか、確かにはわかっていない。地方の村から主要な神殿へのこの人口移動が、最初の都市を生み出した。中期から後期ウルク(前3700ー3100)の時代に新しい都市と外部との交易は、貢物、贈り物の交換、条約の終結、都市の神殿と地上の権威の賛美といった形でとてつもなく増大した。貴石、金属、木材、原毛などが輸入品となっていた。織物と金属器は、輸出品に含まれただろう。後期ウルクには、牛の引く車輪付き乗り物が陸上の交通の新たな技術として登場した。輸出入と税金の支払いを記録するために、新しい会計方法が開発された。封をした荷物や、密閉された貯蔵庫の扉に印を付ける[封泥を付けて開封されていないことを証明する]ための円筒封筒や、梱包物の中身を伝える土器のトークン、そして最終的には筆記が考案されたのである。
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マイコープの文化(黒海カスピ海の間に栄えた文化)は前3700ー3500年ごろ、ポントス・カスピ海ステップを見下ろす北カフカ―ス山脈の山麓に出現した。マイコープの首長の巨大なクルガンの下に埋葬されていた半王族的人物は、メソポタミアから手に入れた装飾品をこれ見よがしに身に着けていた。メソポタミアにすら類を見ないほどの遺物が保存されていたのだ。墓のなかには、金のライオンと牡牛[の装飾品]で覆われたチュニック、純金と純銀の牡牛が据えつけられ、銀で覆った杖、および銀板から鍛造された杯が納められていた。轆轤(ろくろ)で成型された土器は南方から輸入され、ベリクルデイービとアルスランテペⅦ/ⅥAで見つかった一部の土器に似たものをマイコープでも製造するために、この新しい技術は使われた。新しい高ニッケルの砒素を使った砒素銅と、新種の銅合金の武器(スリーヴ付きの斧、有茎式短剣)もやはり、南方から北カフカ―スへ広がり、南方からの円筒印象はマイコープの別の墓ではビーズとして身に着けられていた。この接触が始まったとき、北カフカ―スにはどんな社会の人びとが暮らしていたのだろうか?