じじぃの「科学・芸術_545_文明・馬の家畜化」

Horses in War 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-nQZghjC8RU
ポントス・カスピ海ステップ

馬の家畜化

ポントス・カスピ海草原  Weblio辞書 より
ウマが最初に家畜化された地域と考えられている。
クルガン仮説では、ポントス・カスピ海草原がインド・ヨーロッパ語族の起源地と考えられている。
古くから騎馬民族が栄えた。キンメリア人、スキタイ、テュルク系民族、モンゴル系民族などが勃興した。

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『馬・車輪・言語(上) ─文明はどこで誕生したのか』 デイヴィッド・W・アンソニー/著、東郷えりか/訳 筑摩書房 2018年発行
印欧祖語の原郷の場所―言語と場所 より
本章は印欧祖語の原郷の場所について、言語学的な証拠を挙げてゆく。この証拠は私たちを、踏みならされた道を通って馴染み深い目的地へと連れてゆくだろう。今日のウクライナとロシア南部に相当する黒海カスピ海の北にある草原であり、ポントス・カスピ海ステップとしても知られている場所だ。マリア・ギンブタスやジム・マロリーをはじめとする一部の学者は、過去30年にわたってここを原郷とする説得力のある主張をしてきた。それぞれいくつかの重要な細部が異なる基準を用いているが、多くの点では同じ根拠から同じ結論に達している。近年の発見は黒海カスピ海仮説をいちじるしく強化したもので。ここが原郷であるという仮説は無理なく推し進められる、と私は考える。
馬の家畜化と乗馬の起源 より
ポントス・カスピ海ステップの完新世前期および中期の遺構には3種のウマ科動物の骨が含まれている。カスピ海沿岸低地では、プロヴァヤ53、ジュ・カリガン、イスタイⅣのような中石器時代の遺構で、前5500年以前と年代測定されたゴミ溜めからは、ほぼ馬とオナガーの骨しか見つからなかった。オナガー(Equus hemionus)は「ヒミオニー」または「半ロバ」とも呼ばれ馬よりは小型の、耳の長い俊足の動物だった。オナガーの自然の生息範囲はカスピ海のステップから中央アジア、イラン、および近東まで広がっていた。ウマ科の別の動物、Equus hydruntinusは、やや降水量の多いウクライナの北ポントス・テップで狩猟されていた。前7千年紀後期と年代測定されるギルジュヴォとマトヴェーエフ・クルガンの中石器および前期新石器時代の出土物からも、このウマ科動物の骨は若干の割合で見つかる。氷河期のこの小型動物は当時、黒海ステップの西部からブルガリアルーマニア、さらに南部のアナトリア半島にかけて生息していたが、前3000年以前に絶滅した。本家のウマであるEquus caballusは、カスピ海沿岸低地と黒海ステップの双方に生息し、オナガーとE.hydruntinusが狩猟され尽くしたのちもずっと、どちらの環境でも生き残っていた。
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牛と馬の群れはどちらも先導する支配的なメスに従うため、牛の牧畜民であればとりわけ馬の扱いには向いていただろう。牛飼いはすでに、先導する牝牛さえ制御すれば、群れ全体をうまく扱えることを知っており、その知識を簡単に応用して先導する牝馬を制御しただろう。馬でも牛でも、オスは管理面で同じような問題を起こし、どちらも生殖能力と力強さのシンボルとして象徴的な地位を占めていた。ウマ科動物を狩猟して暮らしていた人びとが、家畜の牛を飼い始めたとき、誰かがすぐにこうした類似性に気づき、牛を扱う技法を野生馬に応用したのだろう。それによってすぐに、最古の家畜化された馬が誕生したに違いない。
馬を買い始めたこの初期の段階は、ポントス・カスピ海ステップでは早くも前4800年に始まっていたかもしれない。当時、馬は主として、扱いにくいながらも、冬季の食肉供給源には都合のよい存在だった。これはヴォルガ川流域のフヴァリンクスとシエジジュや、ドニエプル急流域のニコリスコエで、馬の頭部や下腿が、人間の葬送儀礼において牛と羊の頭部や下腿とともに初めて供えられた時代だった。そして馬をかたどった骨の彫刻が、シエジジュやヴァルフォロミエフカなどの若干の遺跡で、牛の彫刻とともに登場した時代でもあった。馬は間違いなく、前4800年には人間にも家畜を飼育する世界にも象徴的に結びつけられていた。馬を飼うことは、経済、儀式、装飾、政治における急激な変革にさらに別の要素を加えただろう。それは前5200ー4800年ごろに畜産が初めて拡大するするとともにステップ西部一帯に吹き荒れた変革だった。