じじぃの「科学・芸術_512_私を野球に連れてって」

Baseball "Take Me Out to The Ball Game" (1908) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=q4-gsdLSSQ0
Take me out to the ball game.

『スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで』 鈴木透/著 中公新書 2018年発行
南北戦争と国技野球の誕生 より
南北戦争後、野球はプロスポーツとして整備されるとともに、競技としても一段と洗練されていった。1869年には最初のプロチーム、シンシナティ・レッズが創設され、1876年には今日まで続くプロリーグ、ナショナル・リーグが結成された。一定の人口を持つ都市にしかチームは置けないなど、今日のフランチャイズ制(同一リーグ内の各チームは別々の都市を本拠地とする)に通ずる運営が模索された。また、賭博や球場での酒類の販売を禁止するなど、規律を重視する規制と改革の時代の精神に合致する路線も追及された。1903年には、優勝を決定するためのワールドシリーズが導入され、大リーグの輪郭がほぼ固まった。
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ブラックソックス事件(1919年のワールドシリーズにおける八百長疑惑)でイメージダウンを強いられた大リーグだったが、その翌年、救世主が登場する。ベーブ・ルース(1895〜1948)によって、ホームランの魅力があらためて脚光を浴びたのだ。
彼は7歳にして非行のために救護院送りとなり、15歳で母を亡くし、成人して間もなく父も亡くした。しかし、救護院時代に野球の才能を見出され、19歳にして大リーグにスカウトされた。
1914年から投手として出場し始め、翌年18勝を上げる活躍をした彼は、打者としての才能も開花させた。1918年には11本、翌19年には29本のホームランを放ち、それぞれ本塁打王に輝いた。
1920年、ルースはボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースに移籍した。財政難だったレッドソックスと、目玉選手を獲得したかったヤンキースの利害が一致した結果だった。そして本格的に打者に転向した彼は、この年は54本、翌年には59本のホームランを放った。
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ブラックソックス事件ベーブ・ルースの登場によって、野球は自らが内包する近代性と前近代性の両方をほぼ同時に強化することに成功した。それは、国民的競技としての野球の地位をいっそう揺るぎないものにした。だが、野球が他の競技の追随を許さぬ神聖な国技としての地位を獲得できた背景には、ある歌の存在も無視できない。今でも大リーグの試合で7回の裏の地元チームの攻撃に入る前にスタンドの観客が総立ちで合唱する、私を野球に連れてってである。1908年に作られたこの曲は、当初から人気を博し、1930年代には実際に大リーグの試合で歌われるようになっていた。
現在では、この歌の冒頭の歌詞は次のようになっている。
 Take me out to the ball game
 Take me out with the crowd
 Buy me some peanuts and Cracker Jack
 I don't care if I never get back
 <訳>
 野球の試合に連れてって
 大勢の観客がいるところへ連れてって
 ピーナッツとクラッカージャックも買ってちょうだい
 帰れなくなったってかまわない
クラッカージャックとは、ポップコーンのお菓子のことだ。多くの人は、子供が親に野球の試合に連れていくようにせがんでいる様子を思い浮かべるだろう。それは、野球が誰からも愛されていることを連想させる。だが、この曲のルーツをたどってみると、この歌詞の「私」はどう見ても子供ではないのだ。
作詞家のジャック・ノーワースの手によるこの曲のオリジナル版では、実はこれに先立つ前段部分があった。ケイティ・ケイシーという熱狂的な地元野球チームのファンの女性を、彼氏がデートに誘う。すると彼女は――とここで先に紹介した歌詞に続き、「私を野球に連れてって」と言い出したという展開になっていたのである。
ノーワースがこのような歌詞を書いた背景には、ヴォードヴィルの女性歌手トリクシー・フリガンザの影響があったと言われている。ノーワースにご執心だった彼女は、女性参政権運動の活動家でもあった。1908年当時、アメリカでは女性にはまだ参政権がなく、良妻賢母の理想像に反旗を翻すことははばかれた時代だった。だが、産業社会の進展とともに家庭に埋没していく生き方を打ち破ろうとする女性も確実に増えていた。男しか事実上プレーできなかった野球に興味を持ち、野球場という家庭の外へ出て行って、遅くまで応援しようとするケイティは、型破りな女性像であった。
この歌の歴史が伝えているのは、野球が女性解放と接点を結んでいたという、今では忘れられた記憶である。