じじぃの「科学・芸術_511_フーコー『真理の勇気(パレーシア)』」

A Tale of Tolerance 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kJn_nS_E62k

憎しみに抗って――不純なものへの賛歌 カロリン・エムケ(みすず書房 週刊読書人ウェブ
●難民政策に揺れるドイツでベストセラー
ますます分極化する世界で蔓延する憎しみにどう抗うか、という本です。憎しみという感情に焦点をあてたことで、驚くほど世界の中での共通点がみえてきます。
「少しくらい満足しておとなしくなるべきではないか。なにしろ、ここまでいろいろなことが許されているのだから」
「想像することができなくなった人は、彼らが人として傷つきやすい存在であることに気付かず、すでに作り上げたイメージでしか見ない」
「つべこべ言わずに「おおらかに」受け流せという暗黙の要請によって、傷はさらに広がる」どこかで聞いたことがある話ですが、弱い立場の人を貶めて固定しようというレトリックは、みな似たような姿をしているということでしょう。
https://dokushojin.com/article.html?i=3104
『憎しみに抗って――不純なものへの賛歌』 カロリン・エムケ/著、浅井晶子/訳 みすず書房 2018年発行
不純なものへの賛歌 より
イスラエル社会学エヴァ・イルーズの指摘によれば、「パレーシア(ギリシア語で言論の自由のこと)」が向けられる方向または相手はひとつとは限らない。異なるいくつもの権力構造に対して同時に抵抗しなければならない歴史的状況もあるからだ。つまり、「パレーシア」は場合によっては国家とその排斥的な言説、政治権力や党にのみ向けられるのではなく、語る者自身が身を置く社会的環境、すなわち家族、友人、信者仲間、政治活動などにも向けられる。そういった場においても、ときには排斥的な基準や自分勝手なルサンチマンに対する勇気ある異議を唱えることが必要になるのだ。その際に必要なのは、自身を実際の、または妄想上の犠牲者の立場、すなわち排斥される集団の側に置くのではなく、自身の属する集団のなかにも排斥的な、他者に烙印を押す教条や行為があるのではないか、自身の周囲にも憎しみと蔑視の元となる固定化した知覚パターンが形成されているのではないかと目を光らせることだ。異議を唱えることはあらゆる場所で必要であると、イルーズは述べる。
ミシェル・フーコーの「パレーシア」は、憎しみとファナティズムにどう抵抗すべきかという問題に示唆を与えてくれる。主体性を奪われた人たち、皮膚や身体や恥の感覚を尊重されない人たち、平等な人間ではなく、「反社会的」「非生産的」「無価値」な生き物、「倒錯者」「犯罪者」「病人」、宗教的または民族的に「不純」「不自然」な人間に分類され、人間性を奪われる者たち――彼ら全員を、再び個人として普遍的な「我々」のなかに組み入れなければならない。
その前提となるのは、何十年にもわたって受け継がれ、慣習化されてきた歪曲と烙印、連想の鎖を断ち切ることだ。個人を集団と、集団を特定の侮蔑的な性質と結びつける知覚パターンを破壊することだ。「社会的な摩擦の振付は、語りという前線沿いに行われる」――アルブレヒト・コショルケは、『真理と発明』でそう書いている。この意味で重要なのは、自身の言葉と行動によってこの振付を妨害することである。本書の『憎しみと軽蔑 1』で述べてように、憎しみのパターンは現実的な狭義にとらえた言説のなかで形成される。そうして個人や集団が、彼らを貶める特性とのみ結び付けられるようになる。
「異質」「怠惰」「動物的」「道徳的に退廃している」「わけがわからない」「忠誠心がない」「性的に放埓」「不正直」「攻撃的」「病的」「倒錯的」「性欲過剰」「不感症」「不信心」「無神論者」「不誠実」「罪深い」「悪影響を与える」「退廃した」「反社会的」「非国民」「非男性的」「非女性的」「破壊分子」「テロ容疑者」「犯罪者」「旧弊」「穢れている」「だらしがない」「弱い」「意志がない」「従順」「人心を惑わす」「まやかし」「守銭奴」などなど。
このようにして、延々と繰り返される連想の鎖が、間違った確信として植えつけられる。そしてメディアで繰り返し発信され、物語や映画といったフィクションによって固定化し、インターネットはもちろん公的機関によっても再生産されていく。たとえば、教師がギムナジウムに進学できる生徒と進学できない生徒を選別する場合などに、間違ったイメージは、人物を見極める際にも本能的に、または意識的に固定化され、従業員の採用などの場で、特定の応募者は面接に呼ばれないといった具体的な形で現れる。
想像力の欠如は、平等と解放の手ごわい敵である――そして、必要とされる「パレーシア」とは、想像力の地平を再び拡大することである。誰もが参加できる社会的、政治的な場、民主主義的な場もまた、人に向けられ、人を認める言説やイメージから始まる。単純なもの、純粋なものを奉じるファナティックな教条に対抗するための差異化は、まさにそこから出発するのだ。