じじぃの「科学・芸術_504_死に方上手・老少不定」

[重要]中村 元。仏教の本質とは!? これは、やっぱり常識! 動画 YouTube
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『「治る」ことをあきらめる 「死に方上手」のすすめ』 中村仁一/著 講談社+α新書 2013年発行
老いのしたく――病気と寿命は別 より
たしかに、現代の産業社会の価値基準は、若さや生産性や競争力です。この基準に照らすならば、生産に参加できなくなった老人や病人は劣った者、価値の低い者に見なされることになります。
しかし、この基準に乗っかろうと必死にもがいてみても、生活習慣病は完治は難しく、所詮復帰は叶わぬ夢なのです。若づくりというのも、中味の老いを外側で誤魔化そうとする健康志向ではないかと思うのです。
アメリカ人が派手な格好をして背伸びしているのは、若さや強さにしか価値を置かない国柄のせいではないかと思われます。もちろん、地味な格好をして老けこめといっているわけではありません。若づくりが楽しいというのなら、それはそれで結構です。ただ、わが国には”侘(わ)び””さび””枯淡(こたん)”という伝統が生きているわけですからむやみに上っ面だけを真似する必要はないと思います。
そして、ぜひとも若さや健康を重視する現代社会の価値観から脱却が必要だと思うのです。
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ただ熱があるだけの時やカゼなので薬を飲むことはありません。
ところが30年程前、突如、脈が滅茶苦茶に乱れ、みぞおちを下から突き上げられるというか、のどを下に押し下げられるような感じに襲われ苦しくなって夜中に跳ね起きるという事態に、再三直面されるようになりました。
何が苦しいといって、ふだんは意識することのない、呼吸や心臓の鼓動を意識することくらい苦しいことはないように思います。じっとしていられないというか、大声で叫びたくなるような感じなのです。
きっと、経験をお持ちとは思いますが、カゼで鼻が詰まっている時に、無理に鼻で息をしようとすると、一息、一息を意識して発狂しそうになりますが、まさにあの感じなのです。
そこで、寝ている間も記録できる心電計を装着し、心臓の波の形を調べてみますと、滅茶苦茶に乱れているかと思えば、2秒半も心臓が怠けて働かない状態があることがわかりました。心臓を動かす信号を出す本元が異常なのです。
わたしが現在までに行った検査はここまでです。これ以上の精密検査をして、詳しく状況をがわかったところで、有効な手立てがあるとは思えませんので、何もしていませんし、目下はするつもりもありません。
いずれにしても、肉体、健康という、これまで、自分が絶対的な拠り所としてきたものが、根底から揺るがされてしまったのです。
しかし、わたしに限らず、誰もが必ずなにか、例えば、地位、肩書、権力、若さや健康、あるいは肉親、財産というようなものを恃(たの)んで生きていると思うのです。しかも、これらのものがいつまでもなくなるということがないように錯覚して。
心臓の異変が自己の内面に目を向けさせる契機となり、自己存在の意味や自分の生きている意味は何かを考え、絶対不変の頼るべきよすがを求めて必死の彷徨が始まりました。
ふつうなら、心臓を何とか元通りにしたいと考え、名医、専門医を訪ね歩く経緯を辿るのでしょうが、医療には限界があると思っていましたので、哲学、宗教のほうへ向かったのです。
聖書を斜め読みしてみましたが、昨日まで頼りになれるのは自分だけ、自分の力でと思い込んできた人間に絶対神などおいそれと信じられるわけがありません。
キリスト教がダメなら仏教……ということになるのですが、実はわたしも、ご多分に洩れず、仏教というのは、葬式とか供養とか死後の世界だけを問題にする、暗く陰気なもの、とても生身(なまみ)の人間の苦悩に応えられるような代物ではないと考えていたのです。
ところが、書店である仏教書を立ち読みしていたところ、どうも大変な誤解と偏見を持っていたらしいことに気づかされたのです。
それからは、仏教の入門書を片っ端から無我夢中で読み漁りました。
そして、半年が経って、どうやらやっと、いまをどうやって充実させ、溌剌として生きるかを教えているのが仏教だということが、おぼろげながらわかったのです。
とにかく、生死の問題は人間の関知する事柄ではなく、老少不定(ろうしょうふじょう)というごとく、年齢に関係なく、その時がくればおさらばしなければならないし、たとえ死にたくても使命が尽きていなければ、生きなければならないのです。どんな状態であろうと、あるがままをいただいて、その日のくるまで精一杯生きればよかったのです。
自分を見失い、失意のどん底をはい回るうちに、仏教と出会って、一筋の光明を得て、大きく人生観が変わりました。