じじぃの「科学・芸術_440_中南米・サッカー戦争」

El Salvador-Honduras 1969 Football War 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FVshtHUysBc
 The 1969 ‘Soccer War’

『教科書では学べない 世界史のディープな人々』 鶴岡聡/著 中経出版 2012年発行
戦争にまで発展したサッカー試合 より
サッカーといえばブラジルやアルゼンチンなどラテン・アメリカ勢が強い。ペレやマラドーナといえばワールドカップをはじめ世界各国のスタジアムを熱狂の渦につつむラテン・アメリカが生んだ世界的名プレーヤーであることはいうまでもない。しかし、ラテン・アメリカにサッカーがもたらされたのは19世紀後半と比較的新しい。しかもブラジルでは当初サッカーは黒人たちには禁止され、もっぱら白人の支配階級のスポーツだったというから驚きだ。そのサッカーの試合の結果が戦争にまで発展したとなれば、これは驚きどころではない。
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エルサルバドルの土地をもたない農民たちは、自国の6倍も面積があり、人口が約半分の隣国ホンジュラスに不法移住することで活路を開いてきた。ホンジュラスには広大な未耕作地があるので、同国政府も不法移住を黙認してきたふしがある。
60年代に入ると不法移民の数は50万人に膨れ上がり、ホンジュラス農民との間にトラブルが多発した。
ホンジュラス政府は、1962年に決定した農地改革案を69年から実施に移したが、アメリカの後ろ盾を得ている独裁者ロペス・アレジャーノ大統領は、アメリカのユナイテッド・フルーツ社のプランテーションの広大な土地や大統領の身内の土地は分割しなかった。このため、エルサルバドルの不法移民の占拠地が分割の対象となった。
30万人の不法移民が強制送還の対象となり、両国の関係は緊張した。
1969年6月8日、ワールドカップ出場権をかけた戦い
1970年に開催が予定されたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の出場権をかけた両国の試合が、1969年6月8日、ホンジュラスの首都テグシガルパで開催されることとなった。
事態は最初から険悪だった。エルサルバドルのチームが到着すると、彼らの宿泊するホテルを群衆が取り囲み、爆竹やクラクションをはじめとする鳴りものでうるさく騒ぎ立て選手たちを不眠に陥れた。こうしたことはラテン・アメリカでは当たり前だ。
試合は、終了間際にホンジュラスのストライカー、ロベルト・カルドナが勝利のゴールを決め、ホンジュラスは寝不足のエルサルバドルを1-0で破った。
だが、悲劇はこのとき起こった。テレビでこの中継を見ていたエルサルバドルの18歳の少女アメリア・ボラニオスは、父親のデスクからピストルを取り出し自分の心臓を打ち抜いた。
同国のマスコミは彼女の死をセンセーショナルに書き立てナショナリズムを煽った。世論に迎合するように政府も彼女を国葬で遇することとし、国旗に包まれた彼女の棺のあとに大統領、閣僚、政府要人それに選手たちが神妙な面持ちで続いた。
6月15日、2回目の試合がエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われた。今度はホンジュラスの選手たちが眠れぬ夜を過ごす羽目となった。選手たちは軍が護衛する装甲車でスタジアムまで運ばれたが、沿道にはアメリカの肖像写真を掲げた殺気立った市民たちが詰めかけた。
フィールドも無論異様だった。軽機関銃武装した兵士たちが一列に並ぶなか、ホンジュラス国家吹奏の間、群衆はブーイングや口笛でこたえ、ホンジュラスの国旗を燃やし、代わりにボロボロの布巾を掲揚して大爆笑した。
結果は3-0で今度はエルサルバドルの勝利に終わった。しかし、敗れたホンジュラスの選手たちのファンには悲惨な運命が待っていた。彼らは凄惨なリンチを加えられ、2名が死亡、多数の負傷者が出た。数時間後、2国間の国境は閉鎖された。
6月27日に最終戦が戦われたが、延長線の末、エルサルバドルが3-2で勝利した。ホンジュラスはただちに断交をもって応じた。
勝利を機に攻撃をしかけたエルサルバドル空爆
それから2週間ほどたった7月10日、エルサルバドル空軍はホンジュラスの首都テグシガルパ郊外の空軍基地を空襲し戦端が開かれた。ホンジュラス空軍もこれに反撃し激しい空中戦となった。7月14日、エルサルバドルは1万2000人の陸軍部隊を投入しホンジュラス領内に侵攻した。
驚いた米州機構OAS)は調停に乗り出し、7月29日にはエルサルバドルは無条件撤退に応じた。しかし、平和交渉は難航した。ホンジュラスは中米共同市場から脱退し、エルサルバドル農民の移民を禁止し、投資も凍結された。
このため30万人の農民がホンジュラスから追放され、種とのサンサルバドルは彼らであふれかえり、大土地所有制の解体を叫ぶ左翼に対抗して地主の雇った極右勢力のテロが続いた。
内戦が激しくなるなか80年10月に両国はようやく歩み寄り、ペルーのリマで平和条約が集結され、同年11月にはワールドカップ地区予選決勝で、両国は12年ぶりに対戦し、0-0の引き分けで終った。
さらに82年には両国はそろってワールドカップ・スペイン大会に出場した。そして2006年4月、両国対立の最大の争点だった国境画定問題も解決した。
サッカー戦争――われわれには血の気の多いラテン・アメリカ人気質が引き起こした愚行と思いがちだが、そこにはラテン・アメリカ諸国が背負わされた暗くつらい過去の負の遺産があり、戦争はその延長線上にあったことを忘れてはならない。