じじぃの「錯覚・必然性という幻想を超えて!たまたま」

モーガン・フリーマン 時空を超えて 「運命か、自由意志か」 動画 Dailymotion
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gas chamber at Auschwitz

NHKドキュメンタリー 時空を超えて 「運命か? 自由意志か?」  2016年9月9日 NHK Eテレ
【案内人】モーガン・フリーマン
人間は、自由な意志を持って生きているのか? それとも定められた運命に従って生きているのか? 運命にとらわれているとしたら、どのように人間は生きるべきなのだろうか?
人間が選択をする時、自由意志に基づくというのは真実だろうか? 実は我々の行動は全て運命によって定められているのではないのか? 脳をスキャンすると、意識的な決断の前に、無意識に物事を決めていることがわかり、自由意志による決断は幻想だとする説もある。また、物理学では、量子力学の「あいまいさ」こそが自由意志をもたらすという説もある。もし、自由意志がないとしたら、人間の倫理感は危機に陥るのではないだろうか?

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『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学す』 レナード・ムロディナウ/著、田中三彦/訳 ダイヤモンド社 2009年発行
必然性という幻想を超えて より
心理学者デイヴィド・ローゼンハンは、「ひとたびある人間が異常とされると、その人間の他の行動や性格がすべてそういうレッテルを張られる」と書いた。同じことはスターの世界にも当てはまるし、他の多くの種類の成功にも、そして失敗にも当てはまる。われわれは人間や指導力をその結果で判断し、また出来事は納得のいく理由、理解可能な理由で起きると考えている。しかし、必然性というわれわれの明快なヴィジョンは、しばしば錯覚でしかない。
不確かさに直面したとしても、われわれは思考方法を改めることができるという信念でこの本を書いた。われわれは意思決定の技術を改善できるし、愚かしい判断、愚かしい選択をわれわれにもたらしているいくつかの偏見を弱めることができる。われわれは、結果から遠く離れたところにある人間の特質や状況の特性を理解しようとすることができるし、実際に起きた特定の結果によってではなく、もたらされたかもしれないさまざまな潜在的結果によって決断を評価するようになれる。
私の母はいつも私に、未来を予測できるとかコントロールできるとか思わないように、と言っていた。あるとき母は、そうした新年へと彼女を向かわせた出来事について話してくれた。それは母の姉、サビーナに関することだった。母が彼女の最後の姿を見てから65年以上経つが、母はいまでもよく彼女の話をする。
そのときサビーナは17歳だった。若い兄弟姉妹がときおり兄や姉に心酔するように、サビーナに心酔していた母は、当時15歳。すでにナチスポーランドに侵攻していて、町の貧民地区出身の父は地下組織に入っていた。そして前にも述べたように、父は最終的にブーヘンヴァルトの強制収容所に入れられた。母は当時まだ父のことを知らなかった。母は町の富裕地区出身で、最終的に、ある強制労働収容所に入れられた。そこで彼女は看護助手の仕事を与えられ、チフスにかかっている患者たちの世話をした。食料は乏しく、ランダムな死はいつも間近にあった。
消えることのない危険から妹(私の母)を守れるならと、姉のサビーナはある計画に同意した。彼女にはユダヤ人警察の隊員をしている友人がいた。この隊員たちはたいてい囚人たちに軽蔑されていた。なぜなら、ドイツ人の命令を実行し、収容所の秩序維持を手伝っていたからだ。そのサビーナな友人が、立場を使って与えられる保護をサビーナが受けられるようにと、彼女に結婚を――名前だけの結婚を――申し出ていた。サビーナは、それらの保護が妹にもおよぶだろうと考えて、同意した。しばらくはそれが功を奏した。その後何かが起きた。そしてナチスユダヤ警察の関係が悪化した。ナチスは多くの隊員を、彼らの連れ合いとともに、ガス室に送った。送られた中に、サビーナの夫、そしてサビーナ自身がいた。
いまや母は、サビーナと一緒に暮らした年月よりはるかに多くの年月をサビーナなしで生きてきたが、彼女の死はいまも母の頭から離れない。母は、自分が死んでしまったら、かつてサビーナが存在した痕跡がなくなってしまうと案じている。母にとってこの話は、計画を立てることが無意味であることを示している。だが私はそうは思わない。わが目を開いてするのであれば、計画を立てることは重要だと思う。
だがしかし、もっと重要なことがある。母の体験は私に、手にしている幸運を識別し、評価し、また自分の成功に関わっているランダムな出来事を認識すべきであることを教えてくれた。それはまた私に、われわれに深い悲しみをもたらすかもしれない偶然の出来事を受け入れるようにも教えてくれた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、テレビで「白人至上主義者」の特集をやっていた。
白人至上主義者の中に、ナチ的な敬礼をしていた者がいた。
「必然性という幻想」という思いは、ユダヤ人だから特に思うのだろうか。
『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学す』の著者の両親も、ガス室に送られる直前で、助かったのだそうだ。
実際、「必然」と思っても「偶然」かもしれないし、「現実」と思っても「仮想」かもしれない。
量子論」なども、まだ分からないことだらけらしい。