じじぃの「科学・芸術_379_世間・障害者殺人」

犯行前の本人動画入手「後悔していない」植松聖容疑者/2 津久井やまゆり園=知的障害者保護施設 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9kSkNMqUfnc

どちらが美徳? 日本人に根づく「恥の文化」と諸外国の「罪の文化」
アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトが著書である『菊と刀』には、日本人の国民性を研究したものが記されている。
その中で彼女は、欧米は内面の良心を重視する(=罪の文化)のに対し、日本は世間体や外聞といった他人の視線を気にする(=恥の文化)と規定した。両者の違いは,行為に対する規範的規制の源が,内なる自己(良心)にあるか,自己の外側(世間)にあるかに基づいている。
http://u-note.me/note/47506034
『目くじら社会の人間関係』 佐藤直樹/著 講談社+α新書 2017年発行
障害者の「安楽死」思想の起点 より
2016年7月、戦後最悪の大量殺人・殺人未遂事件が起きた。相模原市の重複障害者施設「津久井やまゆり園」で、刃物を持った元職員U(当時26歳)によって、就寝中の19年の入所者が殺害され、職員を含む27名が重軽傷を負った。
この事件がきわめて特異だったのは、事件が起きる約5ヵ月前の2月に、Uが衆議院議長公邸を訪れ、そこで座り込みをおこない、「障害者を安楽死させる」という内容の議長あての手紙を、公邸側の警察官に受け取らせていることだ。つまり、彼はこの自分の障害者抹殺計画を「安楽死」だと、考え、それを国に訴えようとしていた。
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どう考えても、この動機は、にわかには信じがたい。
つまりUはナチスの「優生思想」に基づき、「日本国と世界平和の為に」(議長宛て手紙)重複障害者の殺害を一部実行した。もちろんこれは、彼のいうような「安楽死」などではなく、単なる大量殺人である。
これを、精神病や薬物の影響による「狂気」と考えるのは簡単だ。しかし、この事件の底知れない不気味さは、ヒトラーの言葉と行動がそうだったように、時代のあり方を合わせ鏡のように投影した「正気」をはらんでいるところにある。
いまや「世間」への「再埋め込み」によって、先述したように、誰にとっても「世間」からの「承認」が、生きるためにゼッタイに必要になっている。
Uは大学時代、場を盛り上げるムード・メーカーとして、まわりからの評価も高かったようだ。ところが、父親のように小学校の教員になる夢を抱き、教員採用試験を受けたが不合格になる。このショックで一時的な引きこもり状態になり、友だちからも孤立してゆく。
2012年春、大学卒業とともに、飲料メーカーの配達員として就職するが、長続きしない。そうして2012年12月、「やまゆり園」に非常勤として就職し、翌年、常勤職員となった。
Uは大学時代に刺青(いれずみ)を入れているが、これがだんだん増えてゆく。このころから同居の両親との関係が悪化し、2013年に両親とは別居する。また脱法ドラッグ大麻にはまり、整形をしたり、髪の毛を金髪にしたりしたという。
思うに、教員採用試験の失敗のザセツからの引きこもりと、それによる友だちから孤立で、自分が「世間」から認められない徹頭徹尾の「弱者」であることを思い知らされたのではないか。
それゆえ彼は、友だちを含む「世間」から認められるためには「強者」となる必要がらうと考えた。彼がおこなった刺青も、脱法ドラッグ大麻も、整形や金髪も、目立つことによって、その「世間」から「承認」を得るためだったのではないかと考える。つまり彼のなかには、きわめて強い「世間」による「承認」願望があった。
とすれば、この事件もまた、彼の「承認」願望の延長線上にある。
彼にとって、重複障害者は、「人間としてではなく、動物として生活」する、社会にとってまったく役に立たない「生きる意味」のない存在である。それを「世間」にアピールするために、衆議院議長に手紙を書き、障害者の「安楽死」の許可を求めた。
この手紙のなかでは、それを、「フリーメイソン」や「UFO」や「第三次世界大戦を未然に防ぐ」といった、ネットで横行するオカルトチックな「陰謀史観」を使って理由づけている。
いったい彼は「狂気」なのか、「正気」なのか?
これを精神病や薬物の影響による「狂気」と考えるのか? が、手紙のなかでこの「安楽死」の提案を、自ら「常軌を逸する発言」「狂気に満ちた発想」と語っており、ミョーに冷静である、つまり「狂気」と考えるのは、あまりに「正気」過ぎる。おそらくそれを「世間」にアピールするために、彼なりの正義感で真面目に考えたのだ。
問題は精神病や薬物の影響があるかないか、ではない。彼は「世間」に蔓延するある種の空気を敏感に感じ取っており、その結果として、こうした行動があったと考えるべきではないか。