じじぃの「科学・芸術_377_映画『太陽がいっぱい』」

映画「太陽がいっぱい」 オリジナル・サウンドトラック盤 Versailles 90M312 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=a6NFwpGr6y0

太陽がいっぱい : 作品情報 映画.com
パトリシア・ハイスミスの原作小説を、巨匠ルネ・クレマン監督が映画化したサスペンスドラマ。
主演アラン・ドロンはこの1作で一気にスターダムを駆け上がった。貧しいアメリカ人青年トムは、金持ちの道楽息子フィリップの父親に頼まれ、彼を連れ戻すためナポリにやってきた。金にものを言わせ女遊びに明け暮れるフィリップに怒りと嫉妬を覚えたトムは、フィリップを殺して彼に成りすまそうと計画するが……。音楽はニーノ・ロータ
http://eiga.com/movie/46470/
『巨匠たちの映画術』 西村雄一郎/著 キネマ旬報社 1999年発行
クレマン映画の”間”の作り方 より
クレマンの長編第1作「鉄路の闘い」は、ドイツの占領下に生きた鉄道員たちのレジスタンスの記録だ。このなかで、サボタージュに徹した鉄道員たちが壁ぎわに並ばされ、次々に処刑されるシーンがある。この時も、機銃で撃たれる瞬間の画は、画面には映されない。
またクレマンの代表作「太陽がいっぱい」の前半のクライマックス。ぎらぎらと太陽に照らされたヨットの上で、トム・リプレイ(アラン・ドロン)は、大金持ちの友人フィリップ(モーリス・ロネ)を刺殺する。トランプに興じながら、トムが下に隠していたナイフを手に取ったと思った瞬間、フィリップの空をつかむような手が映る。
こうした例は、見せるべきところで、肝心のものを見せない”暗示法”のひとつと言えるが、とっさの時に、さっと観客の興味をはずして、リズムを崩しているわけだ。そこから生まれる”間”の余韻は、私たちの心に深く響くのである。
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緊張した劇的状況の中で、クレマンのいう”意識の裂け目”(時間や意識のなかの空白状態)を表現するのに、短く挿入されるインサート・カットは有効な手段なのだ。ただし、そのインサート・カットは、なんでもいいというわけではない。
重要なことは、そこに当事者の”潜在意識”が見えていなければならない、ということだ。このことを考える時に、心理学が大いに役立つのである。
例えば、前述した「太陽がいっぱい」のヨットの上の殺害シーン。トムがフィリップを刺した次の瞬間、さっとヨットを写したフル・ショットが短く挿入される。このショット自体は、本来本筋とは関係ないものだ。しかしこの遠景ショットが入ったおかげで、このカット自体が、「誰かに見られている!」とおびえるトムの脳裏をかすめた心象風景に見えてくるのだ。
そこには殺人をついに犯してしまったという後ろめたさ、あるいは神から見られているという罪の意識さえ感じられる。どちらにせよ、この短いインサート。カットは、トムの”主観”であり、”潜在意識”であり、”意識の裂け目”を表現しているのだ。
太陽がいっぱい」には、こうしたトムの”主観”を表すインサート・カットが随所に使われて、クレマンの冴えを見せていた。
トムはさらに、自分に疑いの目を向けたフィリップの友人のフレディをも撲殺し、大胆にも皆といぅしょに彼の死体検分に参加する。その警察の廊下でのシーンに、柱の陰にたたずむ尼僧のインサート・カットが入る。これも、トムの真実が明るみに出ることえの恐れと不安を表している、尼僧をもってきたところが、いかにも罪の意識という”潜在意識”をくすぐるのだ。
また、ナポリの魚市場をトムがうろつくシーンは、中間部のインターミッションになっている。ここでな、ニーノ・ロータの陽気な音楽が入って、名カメラマン、アンリ・ドカエの手持ちカメラがトムを追いかける。このとき、市場に並ぶ不気味な魚の頭を写したトムの見た目のカットが、グロテスクに連続する。そして、水で濡れた路上には、断ち落とされた魚の頭がごろりと転がっている。これもトムの”潜在意識”の表現であり、トム自身の未来を暗示する残酷なインサート・カットなのだ。
とにかく「太陽がいっぱい」におけるインサート処理は鮮やかだ。トムがフィリップになりすまし、サインをまねて銀行で大金をおろす時も、彼の目が突然アップになって、鋭く簡潔に挿入される。そのハッとするような間合いのうまさ!
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心が真っ白になると言うが、そうした心の真空状態を「太陽がいっぱい」の中で、より巧みに使ったシーンがあった。
トムは、部屋に飛び込んできたフィリップの友人フレディをそばにあった布袋の置物で撲殺する。フレディが持っていた紙袋から食べ物が床に散らばった瞬間、沈黙が訪れる。ちょっとした”間”があった後、どこからかピアノの音がかすかに聞こえてくる。トムは放心した状態で窓の下を見る。そこには子どもたちが遊んでおり、自分の状況とは正反対の、平和で平凡な生活を営んでいる。殺人を犯したトムの心境を、この含蓄あるシーンが的確に語っているのだ。
このピアノの音も日常的な風景も、クレマンの言う”意識の裂け目”に位置している。クレマンは、このシーンに関しても、こう強調している。
「殺人などというたいへんな事件を起こした後には、自分の人生にまったく関係ない音楽が、聞こえてくるものなんです」
こうした沈黙によって作られた心的空白状態、即ち”間”は、登場人物の疲労感、虚脱感、空虚感を巧みに表しているのだ。