じじぃの「科学・芸術_374_映画『七人の侍』」

七人の侍(プレビュー) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AxKjtAONFz0

【海外の反応】 「七人の侍」を海外の人々はどう観たか? 【レビュー翻訳】 2017/04/06 超訳コネクト
「日本映画で一番の名作は?」といった投票が行われる度に、間違いなくベスト10に入るのが、黒澤明監督の「七人の侍」です。1位になることも珍しくありません。
海外でも非常に高い評価を受けていることは、皆さんもご存知のとおりです。ルーカスやコッポラといった映画界の大物にも影響を与え、スピルバーグは「映画製作に行き詰まった時は、原点に帰るために必ずこの作品を見る」と発言しています。
http://chouyakuc.blog134.fc2.com/blog-entry-178.html
『巨匠たちの映画術』 西村雄一郎/著 キネマ旬報社 1999年発行
編集テクニックの極意 より
では、編集とは、どういうことを言うのか。編集とは、言うまでもなく、ばらばらに撮ったカットというイメージのかけらをつなぎ合わせて、演出家のイメージを組み立てる作業である。しかし、それを事務的につなぐだけではつまらない。つないだことによって、あるリズムやパワーが生まれなくてはない。そのことを黒澤は次のように言葉で表現している。
「2つの断片を適当に接続してみる。するとその2つの断片は、まばたきをしたように見える。次にもう1つの断片を加えてみると呼吸し始める。この断片と断片の間の”怪しい生命”を的確につかむことが、編集の本質だ」
編集によって生まれた、リズムやパワー……すなわち黒澤の言う”怪しい生命”を断片と断片の間に、エピソードとエピソードの間に、シークエンスとシークエンスの間に創造し、次第にその振幅を増大させていくことが重要なポイントになっていく。そして、脚本に始まり、撮影演出を通して追いつめた、この映画の生命を最終的に定着させるのが、編集の仕事だと言えるだろう。
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七人の侍」にも、撮影はされたが、カットされた、こんな幻のシーンがあった。痩身の剣客・久蔵(宮口精二)が稲刈りの際、稲を鎌で切ろうとするがなかなかうまく切れない。同じ切るにしても、人と稲は違うものだと彼が認識する含蓄あるシーンであったが、そこまで久蔵が人間臭くなることを嫌ってか、このシーンは、編集段階でカットされている。
全体から見た部分、部分から見た全体、編集をする際は、そのどちらからも見られるような客観性を持ちたいものである。
それこそサルでもわかるように、編集によってストーリーを明確に語れというのである。例えば、「七人の侍」は、村の地形、地理的な要素がうまく描かれていた。それは、勘兵衛(志村喬)たちが村を初めて見回る時、東西南北を示す地図のカットを次々にインサートして、それを守っている4人の侍と農民たちのようすを、ていねいに描写していったためである。
こうしたストーリーを理解させるためのわかりやすい編集は、アメリカ映画の得意とするところだ。また黒澤は、強烈な思想を描くためにモンタージュ理論をかかげたエイゼンシュタインよりは、ストーリーをわかりやすく解く素朴なグリフィスの方が好きだと言う。黒澤映画が特にアメリカで熱狂的な人気を博すのは、こうした明快さ、わかりやすさに根ざしているためだろう。
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黒澤がどこでカットを切るかは、ある1つのパターンや癖がある。たとえば「七人の侍」の冒頭、村人たちが集まる集会のシーンで、立っている利吉(土屋嘉男)が急にしゃがむ部分を見てみよう。この時利吉がしゃがんだと思った瞬間、カットは切れて、別地点から撮られた彼のしゃがみこむカットに移行している。このように、1つの動作が2つのカットにまたがるつなぎ方を”アクションつなぎ”と呼んでいるが、黒澤映画では、このアクションつなぎが多用されているのだ。
普通なら、動きが終ってから切る場合が多いが、それだといかにも待ってましたとばかり切っている作意を感じてしまう。動作の途中で切るアクションつなぎは、全体がつながってみるときれいに流れるし、一定のリズムやテンポを出すのに効果的だ。前部が全部をアクションつなぎにしてしまうと、どうにもギグシャクしてしまうが、ここぞというメリハリをつかたい時には、有効な手段である。
これはアクションつなぎの応用としてだが、人物が登場する時、その人物がチラリと姿を見せた瞬間に、カットを切って、その人物のアップに移るという方法もある。例えば「七人の侍」で菊千代(三船敏郎)が馬にふり落とされるのを見て大笑いする農民たちのカットの左右に、向こうから歩いて来た勘兵衛と五郎兵衛(稲葉義男)の2人がちらりと写る。その瞬間2人のアップショットに変わる。
あるいは「赤ひげ」で保本登(加山雄三)が寝そべっているカットのなかに、誰かが入ってきたと思わせた瞬間、カットが変わって狂女(香川京子)の全身像が見えるというぐあいだ。
この方法は、けっこう思わせぶりな方法だが、黒澤はこのようなメリハリのきいた編集法をとることによって、観客の興味や意識を、ある一定方向へ導いているのである。