じじぃの「ナノロボット・人が死なない時代がくる?フューチャー・マインド」

PostHuman: An Introduction to Transhumanism 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bTMS9y8OVuY
ポスト・ヒューマン

Cas9による遺伝子編集法
(eurekalert.org HPより)

カーツワイルの近未来予測(GNR)
●GNR、3つの革命
カーツワイルは、ジェネティクス(G)、ナノテクノロジー(N)、ロボティクス(R)、つまりG・N・R 3つを我々の生活を劇的に変えていく革命を率いるものとして定義します。
・ジェネティクスにより、人間自体をプログラミングできるようになります。
ナノテクノロジーにより、分子及び原子的スケールで物質を扱うことができるようになります。
・ロボティクスにより、人類より優れた知能をつくることができるようになります。
G・N・Rは、それぞれ時期をずらしてピークを迎えることになるでしょう。それぞれにおいてパワフルな革命ですが、これらが一つに収斂していった時の効果は計り知れません。これは、カーツワイルは数十年前も前に著書「The Singularity Is Near」の中で指摘したことであります。
http://www.exponential.jp/?p=331
『フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する』 ミチオ・カク/著、 斉藤隆央/訳 NHK出版 2015年発行
ノロボット――現実か幻想か? より
一見したところ、ナノロボットは単純だ。原子レベルの機械に腕とハサミがついていて、それで分子をつかみ、特定の場所で切り、さらにまたつなぎなおす。いろいろな原子を切り貼りすることで、ナノロボットは、手品師が帽子から取り出すように、既知のほぼどんな分子も生み出すことができる。自己複製もできるから、ナノロボットは一体作るだけでいい。そうすれば、このナノロボットが原材料を取り込み、消化して、ナノロボットを無数に作り出すのだ。これで第2の産業革命が起きるかもしれない。素材を作るコストが大幅に下がるからだ。いつの日か、もしかするとどの家庭にも自家用の分子アセンブラが置かれ、それに頼むだけで欲しいものがなんでも手に入るようになるかもしれない。
ところで重大な疑問がある。ナノロボットは物理法則に矛盾しないのだろうか? 2001年、先見性のあるふたりが、この重大な疑問をめぐって事実上喧嘩を始めた。問題となったのは、テクノロジーの未来の全体的な展望にほかならない。一方は、ノーベル化学賞の受賞者でナノロボットに懐疑的だった、故リチャード・スモーリー。もう一方は、ナノテクノロジーの生みの親のひとり、エリック・ドレクスラーだ。ふたりの激しい応酬は、2001年から2003年にかけていくつかの科学誌の誌面で繰り広げられた。
スモーリーは、原子スケールでは、新しい量子論的な力が現れるのでナノロボットは不可能だと言った。彼の主張によると、ドレクスラーらの起こした間違いは、ハサミや腕を持つナノロボットが原子スケールでは機能しえないという点だ。原子同士を斥けたり引きつけたりする新しい力(カシミール力など)が働くというのだ。彼はこれを「べたつく太い指」の問題と呼んだ。ナノロボットの指は、繊細で精密なペンチやレンチとは違うからだ。量子論的な力が邪魔をするので、厚みが何センチもある手袋をはめたまま金属を溶接しようとする感じになる。しかも、ふたつの金属片を溶接しようとするたびに、金属片があなたに反発したりくっついたりするため、きちんとつかめないのである。
するとドレクスラーも反撃に出て、ナノロボットはSFのものではなく、実在すると述べた。われわれ自身の体にあるリボソームを考えてみよう。これは、タンパク質を作るために欠かせない。リボソームアミノ酸分子を特定の配列でつなぎ、新しいタンパク質を作り出せるのだ。
それでもスモーリーは納得せず、リボソームはなんでも切ったり貼ったりできるような万能マシンではなく、アミノ酸分子に特異的に働くものだと述べた。さらに、リボソームは反応を促進するのに酵素が必要な有機物で、その反応も水のある環境でしか起こらない。ところがトランジスタはシリコンでできていて、水もないので、酵素が働かない。そう彼は結論づけたのである。それを受けてドレクスラーは、触媒なら水がなくても働くと言った。この白熱したやりとりは、何往復か続いた。しまいには、互角のプロボクサーのように、両者とも力尽きたようだ。ドレクスラーは、カッターや溶接バーナーを手にした作業員というたとえは単純化しており、時には量子論的な力が邪魔をする場合もあるということを認めざるをえなかった。一方でスモーリーも、ノックアウトできていないということは認めるしかなかった。自然は、「べたつく太い指」の問題を回避する手だてを少なくともひとつは持っているからだ。リボソームの場合がそうである。それにひょっとしたら、ほかにも思いがけない巧みな手だてがあるかもしれない。
この論争の内容に関係なく、レイ・カーツワイルは、こうしたナノロボットが――べとつく太い指を持とうが持つまいが――いずれ分子のみならず社会そのものも形作るようになると確信している。そしてみずからの見通しを次のようにまとめている。「私は死ぬつもりはない。……わたしはこれを、突き詰めれば、全宇宙の目覚めなのだと思っている。現時点での全宇宙は、基本的に愚鈍な物質とエネルギーでできているが、やがて目覚めのときが来ると思う。だがもし全宇宙がすばらしく知的な物質とエネルギーに変容を遂げるのなら、私はその一部になりたい」

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どうでもいい、じじぃの日記。
コンピュータが人類の知性を超える時代のことを、「ポスト・ヒューマン」と言うらしい。
イメージ的には、人体が改造された社会だ。
Mr.都市伝説 関暁夫が言う「トランスヒューマニズム」と同じ概念のようだ。
「私は死ぬつもりはない」
そんなに遠くない未来に、人が死なない時代がくるのだろうか。