じじぃの「キリスト教・すべての人の命には価値がある?元不良少年の説教」

主はいのちを与えませり 新生讃美歌626番 動画 YouTube
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Elvis Presley - Amazing Grace 動画 YouTube
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こころの時代 〜宗教・人生〜 「神は弱さの中にあり」 2015年10月25日 NHK Eテレ
【出演】木原活信(同志社大学教授)
「世の中は、通常、強いこと、物事を行う能力の高いことが評価される。しかし、人間は、もともと弱い存在であり、弱さを認め合うことで、生きやすい世の中に、多少なりともできるのではないか」と語る。
同志社大学教授・木原活信(きはら・かつのぶ)さん。長年、社会福祉に携わってきた。根底にあるのは、キリスト教の信仰。「自らの弱さを認める」とはどういうことか。
イエス・キリストの根本思想には、コンパッション(compassion、共感・共苦)がある」と語る。

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『なぜ、人を殺してはいけないのですか』 ヒュー ブラウン/著 幻冬舎 2001年発行
生きる喜びは必ずある より
日本に来て驚いたことがもう一つあります。自殺する人が多いということです。
わたしがイギリスに住んでいたころは、自殺のニュースはほとんど聞いたことがありませんでした。それも中高年ならまだしも、若者や子どもが自殺するなどというのは考えられないことでした。
もっとも、つい最近、イギリスでも学校でのいじめの問題を苦にして自殺した子どもがいた、ということをニュースで知り、びっくりしました。
日本で自殺する人が多いのは、一つには、福祉制度が整っていないからだと思います。イギリスでは、病気や老衰などで働けなくなったとしても、食べることと住む所の心配は全然しなくてもいいようになっています。ところが日本では、働けなくなったら、とたんに経済的な心配をしなければならなくなり、ついには頼るところもなくなり、自殺に追い込まれてしまうようです。
また、日本には自殺を賛美するような独特の考え方があります。お金がなくなって人の情けにすがって生きるのは恥ずかしいことであり、そんな恥をさらして生きるくらいなら潔く自殺したほうがいいと考える人もいます。また、会社の不祥事の責任を取って、社長さんや責任者が自殺するというケースもあります。
イギリスでは、自殺することは最も恥ずかしいことです。自殺する人ほど弱い人はない、と誰でも考えています。自殺することで責任が取れるなどと考える人は一人もいません。それは責任逃れとしか受け取られません。本当の責任の取り方とは、問題にきちんと向き合って、ありったけの努力をすることだと考えているのです。
何があっても、最後まで逃げないで闘う。たとえ、カウント・ナインでも立ち上がって闘う人が尊敬されるのです。
そういう考え方の違い、文化の違いは、わたしも認めます。それでもなお、日本人には命の大切さがわかっていないような気がして仕方がありません。
キリスト教では、自殺は基本的に「罪」だと考えています。なぜなら、人間に命を与えたり奪ったりする権利は、神にしかないからです。「自分の命だから、どうしようと自分の勝手だろう」というのは、神の権利を踏みにじるものであり、「罪」以外の何物でもありません、
自殺をすると、神の前で裁かれて、「罪」の中で死ぬことになります。もっとはっきりいえば、自殺したら直接地獄に堕ちるしかないのです。それでは何の問題解決にもなりません。だからクリスチャンは自殺したりはしないのです。
同時に、この世でいちばん価値があるのは人間の命だと教えています。キリストは、「全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、それに何の意義があるのか」といっています。
たとえ世界中のあらゆる富を手に入れたとしても、それより価値があるのが人間の命です。たった一人の人間の命でさえも、お金で買うことはできません。
自分の命の大切さがわかれば、他人の命も同じように大切にしなければならないことに気づくでしょう。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、古本屋に立ち寄ったら、『なぜ、人を殺してはいけないのですか』という本があった。
著者は、15歳でテロ集団に入りその後に神父としての人生を歩み、神戸で宣教師として活動している。
なぜ、人を殺してはいけないのですか?
人間は動物と違って、「魂」をもっている特別な存在なのだという。
最近読んだ 井沢元彦著『逆説の世界史 1 古代エジプト中華帝国の興廃』という本にこんなことが書かれていた。
 なぜ彼らは「儒教は宗教ではなく、儒学という哲学だ」と言いたがるのか?
 儒教の開祖孔子は「怪力乱神を語らず」と宣言した。つまり私の考えでは神霊的存在とか超自然現象とかは扱わない、ということだ。中国人に言わせれば、開始が「怪力乱神を語らず」と宣言しているものがなぜ宗教か、哲学ではないか、ということになる。
 士農工商の身分区別についても、既に述べたような合理的な考えによるもので、神秘的要素は一切ない。その証拠に、たとえ商人の子に生まれても、本人が努力して勉学すれば、科挙に合格し官僚つまり「士」になることもあり得る。本人の努力の結果を試験という平等で客観的な物差しで測るわけだから、これもまったく合理的で神秘的な要素など一切ない、だから孔子の教えも、それを発展させた朱子の教えも、宗教ではなく儒学という哲学だ、ということのなるわけである。
 そして、こういう考え方からすれば、むしろ法の下の平等だとか、一人一票などという考え方は馬鹿げているということにもなる。人間には高潔な哲学者もいれば、人を殺す犯罪者もいる。有能な官僚もいれば、計算すらまともに出来ない人間もいる。だから平等などという考え方はおかしい。むしろ合理的な基準で高潔で有能な人間を選び、その人間集団が愚かな民衆を統治していけば良いではないか、ということにもなるわけだ。
 これは古代から近世まで、中国という一つの帝国を支える基本思想であった。
 そういう考え方が土台にあったからこそ、近代になって中国は、少数の選ばれたエリートが多くの民衆を支配指導するという共産党独裁制にはたやすく移行することが出来たが、すべての人間は平等だと考える民主主義は未だに根付かないということにもなった。
 お気づきのように、これが現代中国の抱える最大の問題点である。
キリスト教の聖書に、「神の前では全ての人間は平等である」であると書かれている。
生まれながらにして平等である(差がない)という社会と、人間は生まれときにすでに優劣がある(差がある)という社会がある。
「全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、それに何の意義があるのか」
宗教も捨てたもんじゃないような、気がする。