じじぃの「歴史・思想_85_中東の世界史・イラン革命・ホメイニーの思想」

How dangerous is Iran really?

動画 YouTube
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Khomeini’s legacy

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

ホメイニーの思想――法学者による統治 より

ホメイニーは、モハンマド・レザー国王の近代化政策に反対して1963年に逮捕され、翌年国外追放の処分を受けており、イラン革命まで亡命生活を送っていた。1971年に出版した『イスラーム統治体制』は、後の、イラン革命聖典となった。
このホメイニーの著作に関して重要な点は「法学者による統治」である。アッラーに代わり法学者こそがこの世の中を統治しなければならない、というものである。ここでの「法学者」とは、西洋で言われている法律の専門家ではなく、イスラーム法学者のことである。いわゆるイスラーム法学者(ウラマーあるいはファキーフ)である。イスラーム法学者のトップはホメイニーであり、「アーヤトッラー」(「神の微」という意味)という呼び方で、自らを権威化していった。以下、ヒエラルキーができる。
シーア派は、法学者による統治という考え方が前面に押し出された時に、その位階が重要になる。キリスト教カトリック構造(トップの教皇以下、ランクによって神に近い存在かどうかがきまる)と非常によく似ている。カトリックの中からはプロテスタント運動が出てきたがイスラームの中における「プロテスタント」的運動も、シーア派の方に多い。アメリカ等を拠点とするシーア派の人々がイスラームプロテスタントというかたちで新しい神学を創り上げている。スンナ派の場合は武装闘争を伴って過激になっていくが、シーア派の場合、キリスト教徒と同じような動きが起こっているのである。
何度も言うように、イランの「イスラーム革命の輸出」というスタンスが、イスラーム世界の中で、「イランは脅威である」という言説が出てきて、イラン・イラク戦争を引き起こすことになった大きな原因となった。革命政権はそのようには言いながらも建て前と本音があり、革命の最前線のイランが潰れると元も子もないということで、国内の民族的少数派による分離主義的な動きや自治要求には厳しい態度をとったのである。具体的には、イラン北西部に住んでいたトルコ系民族のアゼリー人が分離して隣のアゼルバイジャンと一緒になろうとしたことに対して、ホメイニーは徹底的に潰すという行動に出た。あるいは、イラクの国境付近に住むシーア派のアラブ人、つまりペルシャ語ではなくアラビア語を話す人々がイラクと一緒になりたいと訴えた際も、それを拒絶した。スンナ派クルド人の分離独立も認めなかったのである。イラン内の少数派の人々が分離独立をしようとすると潰す。このような厳しい姿勢でイランという国家の枠を維持した。イランは多民族国家であり、それをとにかくイスラームの名の下に包摂するというやり方をしているのである。

イラン革命は何を変えたのか? より

イラン・イスラーム革命の影響を考えていくと、現在につながる問題が、革命の中に萌芽的に出ていたことが分かる。最も顕著なことは、フランス革命以降、ヨーロッパに広がっていった「国民」という世俗的な概念、それに基づいた「国民国家」(nation-state)という政治制度を抜本的に否定したことである。国民国家に代わって、宗教に基づく国家を作るべきだというのである。
社会学マックス・ヴェーバー(1864-1920年)は、近代になって「脱魔術化」が起こったと唱えた。すなわち、神の存在を否定し、世俗的になっていった。世俗化の波は、18世紀に生まれた啓蒙主義が神に対する人間の優位を逆転的に唱えたことから始まり、フランス革命につながっていった。人間の理性を重んじ、人間が現世の主人公であるという考え方である。その考え方が浸透していく過程が近代である、とヴェーバーは論じた。
1980年以降、宗教の復興が活発に議論されるようになった。宗教復興とは、世俗化/近代化への懐疑である。宗教が公的な場から排斥されていくと、それに対し反発が生じる。世俗化が行き過ぎた時、一人ひとりの個人の内面でむしろ逆に宗教への回帰が始まる。それが公的制度である国家の動きとして出てきたのが、イラン革命だったということになる。