じじぃの「科学・芸術_351_大江戸からくり人形」

弓曳き童子 / 田中久重 Karakuri doll 2 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0bjc4rbZHmQ
大江戸からくり人形

ものづくり日本の奇跡 2015年3月23日 TBS
【MC】安住紳一郎綾瀬はるか 【ゲスト】笹野高史箭内道彦 【解説】佐々木三郎(からくり人形師)
江戸時代末期に製作された「弓曳童子」は、からくり人形の最高傑作と言われています。
ねじを巻くと人形が右手で矢を取り、その矢を弓につがえ、的に向かって放つという動作を行います。一度のねじ巻きで連続して4本の矢を射り、そのうちの1回はわざと的を外すように設計されています。矢が当たった時と外れた時で首の動きを変えて気持ちを表現するなど、見る人を喜ばせるための工夫が見られます。
これは東芝の前身、田中製作所を創業した「からくり儀右衛門」こと田中久重が幕末に作ったからくり人形です。
http://www.tbs.co.jp/monodukuri.jpn/
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
諸藩も後押ししたからくり儀右衛門 より
信じられないかもしれませんが、江戸時代の後期に空気銃や精密な時計、そして蒸気船・蒸気機関車(模型)を作った日本人がいました。「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重です。
久重は1799年(寛政11年)、今の福岡県久留米市の鼈甲(べっこう)細工屋(亀の甲羅で装飾品を作る)の長男に生まれました。幼少のときから父親譲りの器用さを発揮し、見よう見まねでいろいるなからくりを作り上げました。
彼の才能を示す逸話が残っています。寺小屋で学んでいたころ、ひも製の特殊な鍵のついた硯(すずり)箱を作り、仲間に開けてみるよう試させましたが、師匠をはじめ誰も開けられません。みなその巧みさに驚きました。また、縁日行業で見た「お茶くみ人形」と同じ動きをする物を試行錯誤のすえ、3年かけて作り上げました。その動きの精巧さは本物以上でした。
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久重はなぜこのような才能を発揮できたのでしょうか。
第1には、彼が「人間がいったん頭に描いた工夫は実現しないことはない」というほどの才能と努力の人であり、金もうけより、人のために役立ちたいという意志の人であったことです。
第2に、彼を取り巻く環境が大きく関係していました。それは長崎に近い所に住み、出島から滲出する西洋の文献・技術や開明的な雰囲気の中で育ったこと、また、商家では長男が家業を継ぐというのが常識だったのに、彼の才能を見抜き、自由に生きる希望を許した父親の存在も見逃せません。
第3に当時の日本人全体の識字率など教育水準が世界に類がないほど高かったことがあげられます。だから、久重はからくりの文献を読みこなせたのです。
第4に、幕末の諸藩が西洋列強に対抗するには、軍事力・科学力が必要であると考えるようになり、そのための知識や技術を積極的に取り入れようと、諸藩は久重たち技術者に活躍の場を保障していきました。おかげで久重は差が反で蒸気機関や電信機、大砲を作り、故郷・久留米藩では鉄砲の他に、製氷機、自転車などを作ることができたのです。