Homo erectus pekinensis 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6ZSJfwyBq1I
Fr. Pierre Teilhard de Chardin SJ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=21-fDKgniPU
Teilhard de Chardin (center)
神父と頭蓋骨 北京原人を発見した「異端者」と進化論の発展 ( 読書 ) ゆうどうの読書記録
●イエズス会神父テイヤールと北京原人をめぐる物語
敬虔なイエズス会神父でありながら一流の古生物学者・地質学者であったピエール・テイヤール・ド・シャルダン(1881-1955)の評伝を縦糸に、人類化石の発掘史を横糸に織り成す科学ノンフィクション。紡ぎだされたテーマは次の4つか。すなわち、①テイヤールの伝記・思想、②キリスト教神学vs進化論、③初期人類の化石の発掘史、そして、④消えた北京原人の化石の謎、である。
北京原人を軸に据えた記述になっているが、北京原人の化石発見は、テイヤールの功績として殊更に強調するのは正しくないように思える。本書を読む限りでは、テイヤールは発掘を推進した一協力者にしか見えない。本人が発掘したわけでもないし、直接に発掘を指揮していたわけでもない。もちろん名声もあり、人望もあるという点で、発掘団の中では中心人物ではあったのだろうが。
https://blogs.yahoo.co.jp/gotoy04/64066332.html
『神父と頭蓋骨』 アミール・D・アクゼル/著、林大/訳 早川書房 2010年発行
北京原人の発見 より
1927年3月27日、充分な資金を与えられて、周口店の洞窟の調査が本格的に再開された。野外調査を割り当てられたグループのメンバーたちは、ラクダのキャラバンのための大旅館に住まわされた。この中国の農村地域で、宿泊施設はここ1軒だけだった。ここで寝泊まりしたチームには、このプロジェクトのために雇われたスウェーデンの古生物学者ビルイェル・ボーリンと中国人地質学者が何にんか含まれていた。また地元の住民60人が作業員として雇われた。プロジェクトを監督するブラックは北京に残ったが、しばしば周口店におもむいた。
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当時、中国地質研究所が周口店を監督しており、このときの事業の責任者は、ベルギーで訓練を受けた中国人古生物学者の翁文顎だった。デイヴィッドソン・ブラック(北京協和医学院)は名誉所長に任命され、ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(神父・古生物学者)に古脊椎動物学についての名誉顧問の役割を引き受けてくれないかと頼んだ。テイヤールはこの役目を引き受けた。天津に常駐しろと、リサンから猛烈な反対にあったにもかかわらず、そして、周口店でおこなわれている国際的な取り組みに正式に加わったのだ。
そのときから、テイヤールはますます不機嫌になっていくリサンと天津で過ごす時間をさらに減らした。そして、機会あるごとに北京を訪れることになる。北京では協和医学院でデイヴィッドソン・ブラックの研究室から遠くない研究室を使わせてもらった。テイヤールにとって、中国地質調査所のこの新しい役職は、願ったりかなったりだった。これで、地質学、生物学、解剖学、古生物学、人類学という自分の興味の対象が組み合わさった大きなプロジェクトに直接かかわれることになったのだ。何年にも渡って教育を受け、野外調査の準備をし、懸命に研究を続け、化石を探すことへの熱意にあふれるテイヤールは、この多国籍な取り組みに加えるのにうってつけの学者だった。
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北京の国際調査グループは、1929年12月の発見に大喜びし、何ヵ月かのちには世界中の人々が、この仰天するような発見について知った。多くの国で、北京原人の重要性に力点をおいた報道がなされた。
テイヤールは、つづいておこなわれた北京原人の頭蓋骨の分析で、重要な役割を担った。それが見つかった層の地質年代を特定して、この頭蓋骨の年代を推定する仕事を助けたのだ。また、周口店で見つかり、北京原人によって用いられたとおぼしき石器を分析し、洞窟から見つかった証拠を解釈して、北京原人は火を用いたというもっとも重要な結論を導き出した。それから、周口店で成し遂げられた科学上の発見の重要性を証明する論文を数本書いた。それらは、ベルギーで出版されているカトリック教会公認の科学評論雑誌《科学問題評論》(1930年7月)と、《エテュ−ド》(1930年7月)、北京の地球生物学研究所の刊行物に載った。
翌1930年の発掘シーズンには、同じ洞窟でまた完全な頭蓋骨が1つ、そして歯がいくつか見つかった。その次の年には、石器、および火が用いられた強力な証拠が出てきた。1932年には、保存状態のいい北京原人のあごの骨が見つかった。それから4年の間に、さらに頭蓋骨、骨の断片、道具がすべて良好な状態で発見されることになる。不完全なものも完全なものも、頭蓋骨にはローマ数字の番号がつけられ、1936年までにⅠからXIIまでがそろうことになった。周口店の発掘現場のこの層からは、ほぼ完全な頭蓋骨が合わせて5つ掘り出された。
今日の科学的年代測定法は、ウランなどの放射性元素の崩壊速度を利用し見つかったさまざまなものの年代を特定している。北京原人は、およそ67万年前から41万年前までの間に、断続的に龍骨山で暮らしたと推定されている。つまり、その年代は平均しておよそ50万年前――ジャワ原人より20万年新しいが、クロマニョン人やネアンデルタール人よりはずっと古い。
周口店で発見が成し遂げられたあと、デイヴィッドソン・ブラックは再びヨーロッパへの旅に乗り出した。今回は見つかったものの模型とスライドを携えており、これにはだれもが感銘を受けた。大学、研究所、公開討論会など、どこで話をしても聴衆から総立ちで万雷の拍手をおくられた。北京原人は今や、ヒトとサルをつなぐミッシング・リンクと認められていた。1932年に、ブラックは業績が認められてロンドンの王立協会の会員に選ばれた。一方オランダでは、ウジェーヌ・デュボアが、ピテカントロプスこそが唯一のミッシング・リンクで、シナントロプスはネアンデルタール人にすぎないと主張していた。今日では、ピテカントロプスとシナントロプスのどちらもホモ・エレクトゥスという種に属し、ミッシング・リンクと考えられるものであることを私たちは知っている。