じじぃの「秦氏は秦始皇帝の末裔か?渡来氏族の謎」

秦氏は秦始皇帝の末裔か
(myj7000.jp-biz.net HPより)

日本の苗字7000傑 Q&A 応神朝帰化族の正体
日本書紀によれば、百済から応神天皇14年に弓月君応神天皇15年に阿直岐応神天皇16年に王仁応神天皇20年に阿知使主が来朝して、その後帰化したとの記述が見られる。まさに応神朝は帰化族ラッシュの時代である。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kikajin.htm
先祖が秦氏である人たちは、今もその事を認識して暮らしているのでしょうか。2009/10/21  Yahoo!知恵袋
回答
秦氏の子孫となると、雅楽太秦家から分かれた、東儀家、林家、薗家、岡家となります。
東儀家では、テレビなどでお馴染みの東儀秀樹が有名ですね。
また秦氏は地方にも領地を広げ、自分の領地や臣下に、「ハタ」を名乗らせました。
その地名、名字が【畑】【波多】【秦野】【波多野】などとなります。
ちなみに神奈川県秦野市秦氏の縁のある地といわれています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432011994
『渡来氏族の謎』 加藤謙吉/著 祥伝社新書 2017年発行
秦氏 より
秦氏の特徴を一言で表わせば、支配下に膨大な集団を擁する巨大氏族、である。
『紀』によれば、応神14(283)年に秦氏弓月君百済より帰化、彼が率いた「百二十県(こおり)」の人夫が新羅人の妨害にあった加羅国にとどまっていると奏したため、使者が派遣され、2年後にその人夫が渡来したとし、『新撰姓氏録』は弓月君(融通王・弓月王)が率いた百姓(たみ)を「百廿(にじゅう)七県」とする。
応神紀20年9月条や『続日本紀宝亀3(772)年4月庚午条には、東漢(やまとのあや)氏の祖の阿智使主が率いた人夫を「十七県」とするが、秦氏の渡来伝承では、それをはるかにしのぐ人々が日本に来たことになる。
欽明紀元年8月条では、秦人(はたひと)や漢人(あやひと)ら海外から帰化した人々を、諸国に住まわせて戸籍に登録したとし、秦人の戸数が総計「七千五十三戸」であったと記すが、仮にこの戸を律令制下の郷戸(行政上の単位となり里[郷]を構成する戸)とみて、一郷戸の平均人口27人で試算すると、19万431人となる。
また、『新撰姓氏録』(山城国諸藩・秦忌寸条)は、雄略朝に召し集められ、秦公酒の支配下編入された秦の民の総数を「九十二部、一万八千六百七十人」と記している。
このような記述は一見すると、秦氏が己の存在を大きくみせるために行った誇張表現の疑いが持たれる。しかし、実際に人名を調べると、秦氏の関係者が最大多数を占めており、木簡など、近年各地の遺跡により出土するお題の文字資料によって、その数はさらに増加する傾向にある。

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どうでもいい、じじぃの日記。
古代日本に、朝鮮からの渡来人が多くやってきた。
加藤謙吉著『渡来氏族の謎』によれば、渡来人は大きく分けて応神朝と雄略朝の2つの時期をピークとしてやってきたそうだ。
今の釜山(加羅国)あたりから渡ってきたらしい。
渡来人は、漢人や秦人と呼ばれた人が多かった。
秦は中国・秦の始皇帝と関係があるのだろうか。
「実際に人名を調べると、秦氏の関係者が最大多数を占めており、木簡など、近年各地の遺跡により出土するお題の文字資料によって、その数はさらに増加する傾向にある」
歴史の教科書では、蘇我氏が大きな勢力を持っていたと書かれているが、実際には秦氏の方が多かったのだろうか。
現代日本で、人の名字「秦」は少数派である。
秦氏の名字はいかなる経過で、少なくなっていったのだろうか。
一説には、秦氏は鍛冶など、鉄器の生産に携わる技術者集団だったらしい。