じじぃの「科学・芸術_273_永劫回帰説」

100分de名著 ニーチェ ツァラトゥストラ永遠回帰とは何か?』 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=anpCJEjvxYU
 ウロボロス

永劫回帰 ウィキペディアWikipedia)より
永劫回帰、または同じものの永劫回帰とはフリードリヒ・ニーチェの思想で、経験が一回限り繰り返されるという世界観ではなく、超人的な意思によってある瞬間とまったく同じ瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという思想である。ニーチェは『この人を見よ』で、永劫回帰を「およそ到達しうる最高の肯定の形式」と述べている。

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『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』 頼藤和寛/著 文春新書 2001年出版 より
1クールの終り頃に採決した腫瘍マーカの値では、CA19-9は5で正常だったが、CEAが11.4で、むしろ手術前より高くなっていた。ちくしょう、ガン細胞はまだ体内のどこかに潜んでいるようだ。退院後に専門書を調べたら、わたしの場合リンパ節転移まであったからデュークス分類ではC段階(かなり悪い)で、大腸ガンの場合5年生存率は35〜60パーセント、これでも胃ガンよりはましとのこと。主治医のA先生が「再発の可能性は半々」と言ったのは掛け値なしだったわけである。いや、ひょっとすると慰めるつもりで軽めに言ってくれたのかもしれない。なんといってもガンの湿潤は直腸壁の外までに拡がっていたのだ。それなら、わたしが5年後も生きている確率は5分5分よりわるいことになる。しかもわたしの場合、ガン細胞の抗ガン剤への抵抗力は、胃腸の粘膜細胞より強かったようだ。もしそうなら、ガン細胞を根こそぎにできるほどの抗ガン剤を使えば、ガンより先に胃腸が完全に破壊されてしまうはずである。「続けていたら胃腸のほうも副作用に慣れてくる」と言われても、それならガン組織だって抗ガン剤の攻撃に慣れてくるだろう。この勝負は続けたとしてもガン細胞側が粘り勝ちするような気がした。
実は、もっと重要なポイントがある。論語に「徳は弧ならず、必ず隣あり」とあるが、ガンも似たようなところがあって、どこにできたのなら、その近所あるいは体内の別のどこかにもガンや前ガン状態があって不思議ではない。要するに、ガンというのは何かの間違いで偶然ぽつりとできたデキモノというより、発ガンを許す体質や体調(その代表例は老化である)といった背景の問題を無視できない病態なのだ。発ガン物質や生活習慣が原因だとする素朴な図式を受け入れたとしても、何段階にもわたる遺伝子キラーが蓄積していかないと細胞はがん化しない。その上、遺伝子キラーを修復するメカニズムも故障していなければならない。それどころか健常者の体内でも毎日数百から数千ほどの細胞がガン化しているという。なぜ発病しないかというと、抗腫瘍免疫やその他の修復・防衛機構によってただちに排除ないし是正されてしまうかららしい。これらを総合すると、ガンは局所の病気であると同時に(転移などしなくても、最初から)全身の病でもあるのだ。我が国や米国で数百万人もいるガン克服者の一部は、そのうち再発ではなく新発生した別のガンで亡くなることが予想されている。そうすると若者のニキビや乳児の湿疹と同じで、できやすい者は結局のところできやすいのである。
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さらば友よ Adieu,l'ami −−むすびに代えて
少々若死にするであろうことは、なんとか諦められる。なにしろ古往今来、洋の東西を問わず、わたしより若く死んだ人々はいくらでもいる。つい数十年前まで、今のわたしの年齢が平均寿命だった。いや、現在でも途上国の多くでは50代のガン死はむしろ長命やぜいたくに属するのかもしれない。
ちょっとお先に失礼しなければならないことのついて、友人知己、職場、その他のつきあいに対し、それほど申し訳ないという気持ちが起きない。わたしがいなくなって困るような関係者はまずいないだろうからである。かわりはいくらでもいる。それどころか、自分の4人の子どもに対しても不憫だとか済まないとかは、かって想像していたほど強くは感じない。古人の言いぐさではないが、若いうちは少し苦労するぐらいで丁度よいのではないか。ところが、家内には気の毒に思う。あるいは申し訳なく感じる。これはなにゆえか、自分でもよくわからない。わたしが術後、酒を控え禁煙を続けている理由の半ばは彼女のためなのである。わたしひとりの命なら、とっくにやぶれかぶれで飲み放題、吸いたい放題になっているのではないか。実を言うと、わたしにとってこの緩慢な自殺法ないし再発死促進法は、今でもじゅうぶん魅力的なのだが。
たのしい慢性自殺を我慢している状態などというのは、かなり屈折した不幸ではないだろうか。結局、妻子が可哀想とか気の毒とか言える立場ではなくて、本人が一番ひどい目に遭っているわけである。だからといって誰のせいだ何がわるかったというのではないし、だいたい自己憐憫というのはみっともないから泣き言は控えておく。
つらつら顧みるに「ものごころがつく」以前のことはまったく記憶にない。楽しくも苦しくもなかったどころか、なにもなかったのである。「まっくら」でさえなかった。開闢(かいびゃく)以来100億年以上、夢も見ずに寝ていたようなものである。主観的にはビッグ・バンから一瞬後に目覚めたことになる。気がついたら20世紀半ばの日本人として存在していた。何億年前の三葉虫としてではなく、また何万年か先の怪物としてでもなく、いかなる因縁にや、読者諸賢と同時代に人として生を享けた。これは実に希有の巡り合わせではなかろうか。そして、この先遠からず死ぬことになるのだが、そのあと再び「なにもない」数百億年が続きのだろう。
このように何百億年という時の流れを考えると、人間の寿命の長短などほとんど問題にならない。つまり「なにもない」過去の数百億年と「なにもない」未来の数百億年に挟まれた一瞬がわれわれの生涯なのであって、これなら子ども時代に死のうがギネスに載るほど長生きしようが五十歩百歩で大して違いはないことになる。ふたつの「なにもない」永遠に挟まれた「なにか」の一瞬という意味では誰しも似たような境涯である。われひと共に、他人の非命を嘆いたたり惜しんだりするほど余裕があるわけではない。百億年のスケールから見れば「どれだけ生きたか」はたいして問題ではなく、「どう生きたか」がいくぶん問題なだけである。
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いや、まったく半死半生の者の繰り言には際限がないのでこのあたりで筆をおくことにする。名残(なごり)は惜しいが、復た出会える日が未来永劫やってこないと決まったわけでもなかろう。人間にとって3分間待つのは容易である。3年、5年だと長くて待ち切れない。これが100億年ということになると逆に存外短いものなのかもしれない。少なくとも宇宙の太初から個人的に物心つくまでは一瞬だった。してみると、死んでから次になにかを体験するまでだとて一瞬だろう。これがわたし流の永劫回帰である。仮に、「次」がないとしたところで、永遠も一瞬も死者にすればたいした違いではない。だから本気で再開を約すわけではないが、われわれにとって永遠と無限の時空で隔てられたとしてもなにほどのこともないのである。