じじぃの「科学・芸術_247_被差別部落民・同和問題」

The River With No Bridge Trailer 橋のない川 予告編 動画 YouTube
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 河原者 皮づくり

部落問題 ウィキペディアWikipedia) より
部落問題は、差別に関する、日本の人権問題、利権問題を含む社会問題の一つである。
政治的・法的・因習文化的な諸問題を多く含む社会問題であり、現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。
河原者 ウィキペディアWikipedia) より
河原者(かわらもの。河原乞食・河原人とも呼ばれる)は中世日本の代表的な被差別民の一種である。
室町時代に入ると河原者の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。河原に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説とがある。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能(能役者、歌舞伎役者:中世にはない)、行商、造園業などにも従事していた。
河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。

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『歴史を考えるヒント』 網野善彦/著 新潮文庫 2012年発行
被差別民の呼称 (一部抜粋しています)
神奈川大学短期大学部で講義していた頃、私は必ずこの被差別民の問題について話すことにしていました。日本人なら誰でも知っておくべき非常に重要な問題であり、日本の社会を深く理解するために、正確に認識しておくべきことだと考えたからです。まず講義の冒頭で「同和問題を知っていますか」と質問したところ、数人を除き、答えられる学生はいませんでした。知っていると手を挙げる学生も数人いましたので、出身地を聞いてみると大阪、広島、山口、島根、三重など西日本出身の学生ばかりで、関東出身の学生の中には本気で、「童話」と勘違いした人もいたのです。これには苦笑せざるを得ませんでしたが、もし京都や大阪の大学で同じ質問を発したら、いまごろそんな馬鹿なことを聞くな、と一笑に付されるか、猛烈な批判を受けるだろうと思います。
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15世紀に入ると、差別される人々の範囲がかなり広がってきたように見えます。例えば、茶摘みをする女性は祇園社では「宮籠(みやごもり」)と呼ばれ、犬神人(いぬじにん)とも深い関わりを持つ巫女(みこ)もその中にいました。また、「一服一銭」と呼ばれる茶売りは、犬神人と同じように覆面をした人として『七十一番職人歌合』に描かれています。このように、茶摘みや茶売りが非人と不可分の関係にあったことは、室町時代には史料の上ではっきり確認できるようになります。(これらの点については丹生谷哲一氏『検非違使平凡社、1986年、同氏『日本中世の身分と社会』塙書房、1993年を参照)
この頃、茶や華も芸能としての形を整えてきますが、お茶を点(た)てる時に使う茶筅(ちゃせん)を売っていたのは、「鉢叩(はちたたき)」という時衆と関わりのある遍歴の僧侶でした。瓢箪(ひょうたん)や鉢を叩きながら諸国を遍歴して教えを広めていた僧形の人が、茶筅を売り歩いていたのです。華についても、菊の花作りに携わったのは非人・河原者の流れを汲む人々だったことがわかっています。
また、室町時代には、河原者は庭園作りの仕事にも携わるようになります。牛馬の皮を扱うだけでなく、木や石を動かすことも河原者の仕事でしたが、それを起点として庭に木を植えたり、石組みをするなどの造園をするようになり、河原者は「御庭者」とも呼ばれるようになります。その中から、善阿弥(ぜんあみ)のように、後世にまで長く名前を残した優れた造園家が生まれていきます。
15世紀には、このように茶や華を扱ったり、庭園をつくる人々、さらには猿楽の芸能に携わる人々も、差別され賤視される一面を持つようになっていますが、そうした人々によって茶道、華道、さらに能のような芸能が生み出され、すばらしい庭園が造り出されたことをわれわれはよく知っておかなくてはなりません。
あわせて注意しておきたいのは、14世紀までは朝廷の官司に統括され、天皇や皇族とも芸能を通じて関わっていた遊女の社会的な地位が低下し、次第に賤視されるようになっていったことです。15世紀以降、遊女は傾城屋(けいせいや)という家を持って客をよび、「辻子(ずし)君」と呼ばれていました。また、京都などの道で客をとる「立君」と呼ばれた遊女もいましたが、いずれもそのころになるとケガレた生業に従事する女性として扱われるようになってきます。身売りによって遊女に「身を落とす」女性が現れるのもこのころであり、傾城屋の集まっているところは「地獄辻子」「加世辻子」(カセは女陰のこと)など、明らかに差別された名称で呼ばれるようになります。宮廷への出入りを許されていた時代からみると、遊女の地位は劇的に低下したということができるでしょう。
そして、その背景にあったのは、やはりケガレに対する忌避であり、セックスもケガレと関連づけて捉えられるようになってきたと考えられます。そして、さらにそれが生理に伴う血のケガレとも結びつき、やがて女性に対する社会的な差別につながっていくことになります。