じじぃの「人の死にざま_1712_牧野・伸顕(外交官・政治家)」

31 第1次世界大戦 1919 パリ講和会議ベルサイユ条約 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4rSrfafmZCM
牧野伸顕

Q. 1919年(大正8年)のパリ講和会議において、日本が国際連盟規約に人種差別撤廃を定めようとしたのは本当ですか。
A. 本当です。
1919年4月11日に開催された国際連盟最終委員会において、牧野国際連盟規約の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し、出席者16名中11名の賛成を得ました。しかし、議長であるウィルソン(T. Woodrow Wilson)米大統領は、このような重要事項の決定には全会一致を要するとして、日本の提案を退けました。こうして日本の人種差別撤廃に関する提案は、最終委員会での牧野の陳述と日本の提案に対する賛否の数が議事録に残されただけの結果に終りました。
このようなパリ講和会議における人種差別撤廃問題に関する史料は、外務省記録「人種差別撤廃」に収録されています。また、このうち主要な文書は『日本外交文書』大正7年第三冊および大正8年第三冊上巻に採録されています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/taisho_02.html
牧野伸顕 コトバンク より
牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)は、政治家,外交官。
大久保利通の次男。大叔母の婚家を継ぐ。明治4 (1871) 年,西郷隆盛が勅命により上京したとき,ともに上京。同年岩倉遣欧使節団に留学生として随行,渡米。西郷の息子菊次郎,村田新八の息子十蔵らとともにフィラデルフィアで中学に通った。

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『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1996年発行
日本の人種平等案を否決したアメリ (一部抜粋しています)
「1914年(大正3年)、主にヨーロッパを戦場とし、世界じゅうをまきこんだ第一次世界大戦が起こりました・この戦争では、負けた国も勝った国も大きな被害を受けました。そして二度と戦争が起きないよう、国際連盟がつくられました」(小学校社会科教科書より)
この国際連盟をつくるとき世界の国々はどのようなことを話し合ったのでしょう。
国際連盟をつくろう」というのはアメリカの大統領ウィルソンの意見でした。大戦でひどい被害を受けていた国々はこの意見にみんな賛成しました。そして、1919年に開かれたパリ講和会議でこの国際連盟の規約について話し合われることになったのです。
この会議で日本の代表・牧野伸顕(のぶあき)は、とても重症な提案を行いました。「人種差別をやめよう」という『人種平等案』を規約にもりこむという提案です。このころ日本からアメリカ移民した日本人は人種差別を受け、とてもつらい思いをしていました。ですから、日本政府はなんとか人種差別をなくしたかったのです。人種差別で苦しんでいた黒人をはじめとする夕食人種の人々も日本のこの提案にとても期待していました。
ところが、予想に反していくつかの白人国家がこの提案に強く強く反対したのです。そこで牧野たちは粘り強く交渉を進め、新しく修正案を提出しました。こうした日本の努力でこれまで反対していた国々が賛成に回り始めました。そして、日本が採決を希望し、挙手による採決が行われました。結果は日本の提案に賛成が11人、反対は5人。
日本の提案が通ったと誰しもそう思ったその時、議長のウィルソンはこう言いました。「日本の提案は全員が賛成でないので否決されました」。
明治の元勲、大久保利通の次男である牧野は叫びました。「なぜです! これまでこの会議では採決したときは多数決で決めてきたではありませんか」。
ウィルソンは答えました。「このような重要な問題は全員が賛成しなければ認められません」。信じられないことに、ウィルソンのこの言葉で日本の画期的な提案は否決されてしまったのです。
なぜ、ウィルソンは日本の提案を否決したのでしょうか。当時、アメリカはアジア人・黒人と白人の間の人種問題を国内に抱えていました。ウィルソンは日本の提案した「人種平等案」が国際連盟の規約の中にもりこまれてしまうと、その影響を受けてアメリカ国内の人種問題がさらに大きく広がってしまうと考えたのです。
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この時の日本の対米感情が日本とアメリカの間で起きた戦争のひとつの原因になってしまったという見方をする人もいます。