じじぃの「科学・芸術_244_反アパルトヘイト運動を支えた日本人」

Apartheid in South Africa 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=x1N2WrH-yUA
Apartheid in South Africa

◆作家、小宮山量平氏が13日に死去(95歳) 2012年04月21日 東信ジャーナル[Blog版]
小宮山氏は上田市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒。北海道旭川で軍隊生活を体験した後、昭和22年に東京で理論社を創業。当初は自律的な理論こそが必要との思いでこだわった理論書を手掛けた。
 その後は創作児童文学作品の本格的刊行を始め、同37年には児童詩誌「きりん」も引き継ぐなど、創作児童文学の分野を確立させた。同56年には倉本聡氏の「北の国から」をあえてテレビドラマのシナリオのまま出版して新境地も開いた。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000386588.html
南アフリカを知るための60章』 峯陽一/編著 赤石書店 2010年発行
アパルトヘイト運動を支えた出版人 【執筆者】城島徹 (一部抜粋しています)
1960年代にアパルトヘイト(人種隔離)政策への抗議行動が世界で広がるなか、日本の作家や画家たちも反差別で連携する行動を起こした。その取り組みを示す興味深い資料がある。創作児童文学の名著を数多く世に送り出してきた編集者、小宮山量平さん(1916年〜、長野県上田市在住)が大切に所有してきた書類だ。
戦後間もない1947年に出版社「理論社」を創業した小宮山さんは、児童文学の出版に情熱を傾け、今江祥智灰谷健次郎庄野英二らの作品を手がけた。一方で1960〜70年代にガーナを英国から独立に導き初代大統領となったエンクルマやケニアケニヤッタコンゴのルムンバら当時の指導者の伝記をはじめ、欧米の研究の翻訳書を次々と手がけ、国内のアフリカ研究者の間では「闘う出版人」として一目置かれていた。「あの当時、アフリカのゲリラ組織から最新情報が続々と届いたんですよ」と述懐する小宮山さんは、『人間の条件』や『戦争と人間』などを著した友人の作家、五味川順平や、日本の反アパルトヘイト運動の創始者とされるアフリカ研究者の野間寛二郎、さらに中国史学者の上原淳道らと、アパルトヘイトに苦しむ南アの人びとの支援にも立ち上がった。
1965年10月にロンドンで開催される「南アフリカ政治犯救援国際美術展」を前に、知り合いの画家たちに作品によるカンパを呼びかけた文書がある。「過酷な人種差別と闘って捕えられて人々のため」と記され、五味川、野間、上原とともに、小宮山さんが準備会の「事務連絡責任者」として名を連ね、「理論社内」を連絡先に同年8月送付したものだ。
この呼びかけに応えたのは「原爆の図」で知られる丸木位里、俊夫妻や、児童書の絵でおなじみの田島征三長新太ら新進画家たちだった。当時、南アではネルソン・マンデラら「政治犯」が続々と投獄されていたが、経済で南ア白人政府と実益的な関係にある日本企業は「名誉白人」の立場で人種差別に乗じて甘い汁を吸い続けただけに、そうした流れに抗う表現者たちの強固な正義感と良心がうかがえる。
史料は、小宮山さんと家族が営む長野県上田市の資料館「エディターズミュージアム(編集者の博物館」で公開されている。
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今でも「小宮山量平」「野間寛二郎」の名前がアフリカ関係者の間で特別な響きをもつことを実感することがある。
2009年4月27日、東京内幸町の日本プレスセンター。南ア大使館主催のフリーダムデーを祝うパーティー会場で、小宮山さんらの業績を話題にした私に「絶対に忘れてはいけない重要な仕事ですよ」と力説する人物がいた。ケニア生まれ故郷で植民地政策の弾圧を体験し、35年前に留学して以来、日本に暮らす四国学院大学教授のゴードン・ムアンギさんだ。
ワールドカップで熱戦の舞台となる南ア各地のサッカー競技場のパネル写真が飾られ、首相経験者ら国会議員、商社関係者が「両国の経済協力」の話題で盛り上がる会場。その一角でムアンギはいった。「野間さんはヨーロッパの見方に影響されず、現地を取材して独自の視点からアフリカを書きました。反アパルトヘイトへの連帯を含め、私たちはその業績を改めて評価する必要がありますよ」
戦争体験をもち、出版人としてGHQの検閲、国家権力などに抵抗しつつ戦後思想史に多大な営業を与え、創作児童文文学の大きな世界を築いてきた稀代の編集者、小宮山さん。彼らの仕事と反アパルトヘイト闘争に通底するヒューマニズムは未来に向けて強い光を放ち続けることだろう。