じじぃの「科学・芸術_195_アール・ヌーヴォー・クリムト」

Who is Gustav Klimt? 動画 YouTube
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Reportage 12h45 sur M6: "Au temps de Klimt, la Secession a Vienne" 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Nn_UKSIzjME
Gustav Klimt - L'Arbre de Vie - Palais Stoclet -1905-1909

Stoclet Palace Klimt

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松下奈緒「接吻」〜黄金の画家クリムトとウィーン1900年〜』 2017年6月4日 BSフジ
【ナビゲーター】松下奈緒
ヨーロッパを代表する芸術の都ウィーン。19世紀末この都を中心に花開いた新たな芸術の波は驚きと共に世界を魅了した。その中心にいたのが「愛の画家」「黄金の画家」と呼ばれた天才グスタフ・クリムトと仲間の天才たち、建築家ワーグナーや作曲家マーラー、後輩エゴン・シーレだった。
番組では、世紀末美術の世界に革命をもたらしたクリムトの華麗な作品を軸に芸術の都ウィーンを旅し、美術・音楽だけでなく建築や工芸等様々に幅広い分野へと広がるウィーン世紀末芸術の豊かな魅力を紹介する。
実は「分離派(ゼセッション)」「アール・ヌーヴォー」とも呼ばれるウィーン世紀末芸術には、意外な日本との関わりもあった。それが当時ヨーロッパを席巻していた日本趣味「ジャポニスム」。クリムトが傑作に忍ばせた様々な日本のデザイン・意匠や、自身が集めた驚くべき日本の美のコレクションを発掘し紹介する。また、遺族に受け継がれた未公開ヌードデッサン群も日本初紹介する。
クリムトの独特な平面的・装飾的画法は、浮世絵だけでなく日本の着物などからも学んだものといわれていて、実際彼は日本の着物や衣装や家紋などもコレクションしていた。
http://www.bsfuji.tv/matsushitanao/pub/004.html
『世界の美術 アール・ヌーヴォー スティーヴン・エスクリット/著、天野知香/訳 岩波書店 2004年発行
円を四角くする (一部抜粋しています)
分離派自体もまた、オルブリヒの分離派館で見たように、古典的なテーマによって支えられていた。古典主義を参照することは視覚的な面にとどまらなかった。現代の芸術家や装飾家と古典的な伝統とのあいだの不安定で逆説的な関係は、分離派の機関紙における『ヴェル・サクルム(聖なる春)』という雑誌名の選択にもっとも明確に表れている。「聖なる春」と訳すことのできるこのタイトルは、ミュンヘンの『ユーゲント』誌と同様のレトリカルな効果が意図されている。そしてこの雑誌の図版の様式は、ウィーン分離派とドイツで天かいしていたユーゲントシュテールを結びつける。1899年の号のモーザーによる表紙には恍惚とした若い女性が描かれており、その流れる髪はバラへと変化する。『ヴェル・サクルム』誌はこうした視覚芸術における作品を、過去20年間にわたってつねに若さを装うことによって自らを主張してきたウイーンの知識人たちの伝統に位置づけるのに役立った。
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反体制としての分離派は、さらに古代ローマ時代の「分離平民」に自らの古代における先駆者を見出していた。古代史によれば上流の支配階級に属さないローマ市民である平民は、貴族による支配を拒否して街外れの丘へと引きあげた。「分離」として知られるこの反抗の身振りは、諸制度から分離することのよって芸術的な権威に反旗をひるがえした19世紀末の分離派の行動そのものだった。1898年の第1回分離派のポスターで、グスタフ・クリムトは、こうした反抗のもう1つの古典的な例を選び出し、アテナイの若者を助けるためにミノタウロスを殺すテセウスを描いた。クリムトは、都市国家アテナイの守護神であると同時にオーストリア議会の公的シンボルでもあるアテナの姿を描き加えることによって、この情景をとりまとめる。ここでも19世紀の歴史主義的古典主義を拒否するどころか、クリムトは現代性と反抗を表現するためにそれを利用したのである。反抗の表明としてのポスターは、テセウスの裸体を隠すことをクリムトに敷いたウイーンの検閲によってそこなわれた。のちの版では、唐突に描かれた木の幹が英雄の性器を隠している。
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1907年にモーザーがウイーン工房を去ると、工房はより豪華で装飾的な制作物を生みだすようになっていった。ウイーンのアール・ヌーヴォーの精華ともいうべきストックレ邸が完成したのがモーザーの去った後であったというのは、したがって、まさに時宜を得ている。ブリュッセルに建設されたストックレ邸は、妥協の余地のないブルジョワ的な注文であった。ウイーン工房が掲げる総合芸術は、ヨーロッパのもっとも裕福な産業人、鉄道と石炭による大立者アドルフ・ストックレの広大な私邸で実現された。
一見するとストックレ邸は、黒っぽい緑に囲まれた白い幾何学的形態をもったブロックの使用などに、プルカースドルフのサナトリウムと基本的に共通するものをもっているように思われる。建築を受注した直後の1905年に制作されたホフマンの初期の室内デッサンは、その結果をもたらされる建物が非常に厳格な構成をもつことを示している。しかし実際に完成したストックレ邸の室内は厳格さの典型というよりは、むしろ見せびらかしの称賛とでも呼ぶべきものとなっている。惜しみない費用がこの豪華な邸宅の建設と装飾に費やされ、建物と室内はアール・ヌーヴォーの倫理の精髄とその古典的な表現様式の頂点を代表している。
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ウイーン工房に集まった芸術家たちは、完全に芸術的な生活の場を創造するという使命を再度果たすことができたのである。同時に、ホフマンやその他のウイーン工房の装飾家の男女とともにグスタフ・クリムトが加わったことは、アール・ヌーヴォーを支えているもう1つの原則を体現している。すなわち、大芸術家と小芸術、美術と応用芸術の平等な融合である。ホフマンもオルブリヒとともに、この問題に個人的にかかわっていた。実際2人が1905年に分離派を離脱したのは、建築や装飾を全面に押しだすことによって伝統的なイーゼル画の地位をそこねたことが糾弾されたためであった。
グスタフ・クリムトもまた同じ理由で分離派を離脱し、ストックレ邸の一連の壁画制作にたずさわった。《ストックレ・フリーズ》と呼ばれるこの壁画は有名になり、アール・ヌーヴォーとのかかわりを示すクリムトの画業の代表作となった。その折衷的で装飾的な絵画は、ビザンティンやエジプトといった古い文明から日本のエキゾティシズムにいたるさまざまの非ヨーロッパ芸術の広範な源泉から引きだされ、平面的な様式化された筆致で描かれている。こうした様式によってクリムトは、1898年の分離派展のポスターや、《ベートーヴェン・フリーズ》における力強いユーゲントシュテイール風の人物像から最終的に決別した。しかしながらこれは、クリムト象徴主義のあらゆる側面を捨て去ったということを意味しない。それどころか、《ストックレ・フリーズ》は豊かな象徴的意味やエロティックな内容をはらんでおり、世紀末の精神とクリムトとの親近性を改めて示している。相対する壁面のために構想された絵画には横顔に近い若い女性が建っている姿の《期待》と、クリムトのもっとも有名な作品である1907年から1908年の《接吻》が描かれている。両方の壁画の入り口側には《生命の樹》の縦横に延び、渦を巻く枝が描かれ、ベルンハルト・パンコックのようなミュンヘンのユーゲントシュテイールの芸術家に見られた一種の一次元論を反映している。
クリムトの食堂の装飾や大理石の見事な壁。そして応接間の床の入念な象眼細工に見られる金色に輝くエキゾチックな豪華さはアール・ヌーヴォーの退廃的な趣味をもっとよく示す作例の1つであるが、浴室や台所は、より厳格な外観がすでに示唆しているような、余分な装飾を一切はぎとった機能主義によって特徴づけられている。したがって総合芸術の異なった側面は、アール・ヌーヴォーおよびその擁護者とモダンのあいだのあいまいな関係を証拠立てているのである。