じじぃの「シーレ・『死と乙女』・ナルシストの最後!怖い絵」

NHK出版 生活人新書 「怖い絵」で人間を読む PV 動画 YouTube
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エゴン・シーレシューベルト「死と乙女」 動画 YouTube
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エゴン・シーレ Google 検索
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エゴン・シーレ-死と乙女-(画像・壁紙)
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エゴン・シーレ ウィキペディア より
エゴン・シーレ(Egon Schiele, 1890年6月12日-1918年10月31日)は、20世紀初め頃のオーストリアの画家。エーゴン・シーレとも。
当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派、象徴派、オスカー・ココシュカに代表される表現主義のいずれにも属さず、独自の芸術を追求した画家であった。
【生涯】
1915年、シーレはヴァリと別れ、エディット・ハルムスという女性と結婚する。1916年から1917年にかけて軍務に服するが、上官の理解を得て、軍役の間も絵を描くことを許された。1918年、第49回ウィーン分離派展に出品した作品は高い評価を得、ようやく画家としての地位を確立しようとしていた矢先、当時ヨーロッパに流行していたインフルエンザ(いわゆるスペインかぜ)であっけなく死去した。28歳の若さであった。なお、妊娠中であった妻のエディットはシーレの死のわずか3日前に同じ病で没している。
【作風と評価】
シーレの関心はどこまでも自分の内部へと向かい、多くの自画像を残した。自画像を含むシーレの人物像の多くは激しくデフォルメされ、身をよじり、内面の苦悩や欲望をむき出しにしている。自慰にふける自画像、陰部をあからさまに露出した女性像などの大胆な表現は21世紀の今日の鑑賞者にも驚きを与える。確かなデッサン力に裏付けられたシーレの作品の価値が国際的に評価されるようになるのは、20世紀後半になってからであった。

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『怖い絵 3』 中野京子/著 朝日出版社 2008年発行
シーレ 作品『死と乙女』 (一部抜粋しています)
シーレと知り合う前のヴァリが、どんな人生を送っていたかは知られていない。いずれ最底辺の出だったろうとは、だが容易に想像できる。この時代の硬直した階級社会にあって、モデルは娼婦の次に軽蔑される職業、場合によっては娼婦よりなお悪いと言われていたからだ。ヴァリは、シーレが師と仰ぐクリムトのもとでモデルをしていた。おおぜいのモデルと雑居していた奔放なクリムトは、まだ無名の、自分の息子ほど若いシーレの才能を認め、ヴァリを使うよう、いわばプレゼントしたのだ。こうして21歳の魅力的に若者と17歳の不幸な赤毛の娘はたちまち惹(ひ)かれ合い、同棲する。
シーレは屈折したナルシストで露悪的だった。100枚以上も自画像を描いているが、奇妙にもその像は実物にほとんど似ていない。美化したのではない。逆だ。ドリアン・グレイと正反対に、絵の中の彼は年老い、醜く、表情も肉体も歪(ゆが)み、大きすぎる、あるいは小さすぎる性器を露出し、不快で薄汚れていたが、現実の彼は若々しくハンサムでおしゃれだった。
こんなややこしい男、虚栄心は強いが性格の弱い男を、ヴァリは愛し、支えた。どんなポーズも、それこそありとあらゆるポーズをとって、シーレの要求に応えた。辛いと思うこともあったに違いない。シーレは思春期に最愛の父親を梅毒で亡くしたことも一因で、性と死を生涯のテーマとし、しかも表現は胸を抉(えぐ)るほど赤裸々で、むき出しのエロスに貫かれている(現代の目から見ても過激なのだから、当時はどれほどに感じられたか)。ポルノと見なして注文してきた客に作品を届けにいったヴァリが、猥褻(わいせつ)な言葉を浴びせられ、泣いて帰ってきたこともある。
シーレが逮捕されたときさえ見捨てなかった。素人の少女たちを使って危うい裸体スケッチを多数描き、性犯罪容疑で3週間未決拘留(こうりゅう)されたのだが、ヴァリは毎日面会に通い、会えないときは塀の外から果物を投げ入れるなどして励(はげ)ました。最大の危機を、シーレは彼女の献身によって切り抜けた。
ヴァリは彼の「運命のミューズ」であり、日常の世話をしてくれる母代わりでもあった。ヴァリの存在なしには、気鋭の画家シーレは誕生しなかったと言われる。事実、代表作の多くは、彼女との同棲中に生まれている。しかし名が上がるにつれ、シーレの中で次の目標ができてきた。画壇での地位を確立するため、中産階級のきちんとした女性と結婚し、堅実で幸せな家庭を作るという目標だ。
そのころ彼はウィーンにアトリエを構えていたが、向かいの鉄道官史の家に美しい姉妹がいるのを知る。シーレは彼女たちに宛てて一方的な手紙を送り続けた。そのうちヴァリをうまく言いくるめ、姉妹とヴァリと4人で遊びに出かけるようにもなる。シーレは姉妹のうちどちらでもかまわなかったが、姉の方が身を引いたので、妹のエーディトとの結婚を決めた。エーディトは結婚の条件として、ヴァリと別れるようシーレに迫った。
シーレはどうしたか?
ヴァリとは別れる、と婚約者に約束した。ヴァリには、「1年に1度は必ず水入らずでヴァカンスへいこう」と手紙を書いて手渡した。
ヴァリはどうしたか?
黙ってその手紙を読み、「ありがとう。でもできないわ」と言い残して去った。
ヴァリが去ったことに、シーレは激しいショックを受ける(『死と乙女』にそれがありありと見てとれる)。彼の驚くべきエゴイズムによれば、ふたりの女はそれぞれ妻は妻として、愛人は愛人として本分を守り、自分のそばにいてくれるはずだった。だがそうはならなかった。ふたつを手にすることはできず、どちらかひとつ選ばねばならない。世間体のいい家庭が欲しいというのが第一義なのだから、エーディトは手放せない。となると、4年にわたって全身全霊で自分に仕えてきたヴァリを捨てるより他、しょうがないではないか。
ヴァリの悲しみを見るまで、ひょっとするとシーレには、彼女を裏切ったという意識は少なかったのかもしれない。身分の低いヴァリと結婚するなど論外ということは、とうぜん彼女にもわかっていると軽く考えていたのかもしれない。だから、傷ついた自分(彼女ではなく)を絵に描き、それで関係を清算したのだろう。
あまりにもありふれた話だ。どん底から這い上がった男が、苦労を共にしてきた女を、もう不要になったと捨てる。世界中のどこでも、今この瞬間にも、退屈なメロドラマさながら頻発(ひんぱつ)しているはずの、陳腐な恋の滓(おり)(だがそのありふれた話がこんな怖い絵となった!)。
こうしてシーレとエーディトが穏やかな結婚生活に入る一方、ヴァリは従軍看護婦に志願して、第一次世界大戦只中の戦場へ向かった。シーレは本当に死神だった。彼女は2年後、まだ23歳という若さで、ダルマチア戦線で猩紅熱(しょうこうねつ)にかかって死ぬ。
1918年――ヴァリがひとり寂しく野戦病院で死んだ翌年――、シーレは人生の絶頂にいた。3月にウィーンで開催された分離派展においてポスターを制作、しかも出品した50作がほぼ完売し、売れっ子作家の仲間入りを果たしたのだ。続いてチューリヒプラハドレスデンの美術展にも参加し、前途は洋々と開けた。
私生活の喜び事も加わる。エーディトの妊娠だ。これでいよいよ父親になれる。実母を憎み、家庭の温かさを知らなかったシーレは、理想の家族が形成されつつある希望に胸膨(ふく)らませて、まだ生まれていない子どもを描き込んだ、大作『家族』に取り組んだ。
邪魔な女性と手を切って、シーレは幸せになりました、めでたし、めでたし・・・・というわけだろうか? 違う。
10月。彼の幸せは、彼の絵のぽきぽき折れやすい線と同じく、途切れてほしくないまさにその箇所で、ぷつりと終る。永久に。
ひどいあっけなさだった。
5月にマドリードで発生したインフルエンザは「スペイン風邪」と呼ばれ、瞬(またた)く間に地球規模で広がっていた。最終的には全世界で発病者6億、死者3000万とも4000万ともいわれ(日本でも40万近く亡くなっている)、その猛威の前に、まずエーディトがおなかに子を宿したまま倒れた。次いで3日後、感染したシーレも助からなかった。26歳。世間に名を知られると同時に夭折(ようせつ)は、確かに痛ましいものといえよう。
それにしてもわずか1年。その1年の間にみんな死んでしまった。ヴァリもエーディトもシーレもシーレの子も・・・・。

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どうでもいい、じじぃの日記。
中野京子著の怖い絵シリーズ『怖い絵 3』にシーレの作品『死と乙女』が載っている。
この絵も、絵にまつわる背景を説明してもらわないと、何が怖いのか分からない。
シーレの絵は、いろいろある絵の中でどこかお宅っぽい絵のように感じる。みんなセックスぽいのだ。
やたらと裸の自画像が出てくる。彼は何を表現したかったのだろうか。
シーレの絵で一番先に思い浮べるのが「左足を上げて座っている女」だ。この絵は女の裸の絵ではないがセックスの匂いがしてくる。
シーレは28歳の若さで、スペインかぜによって病死した。彼が画家として絶頂期で世間に名を知られ始めた時の死だった。
シーレはヴァリをモデルした作品を多く描いた。そして、ヴァリと別れる際に描いた絵が「死と乙女」だ。
別れた1年の間にヴァリは死に、シーレと結婚した相手のエーディトは、おなかに子を宿して死んだ。そしてその3日後にシーレが死んだ。
あたかも、「死と乙女」が引き金になって、シーレに不幸が訪れたように。
天才シーレが生きていれば、あとどんな作品を残したであろうか。
樋口一葉は24歳で、滝廉太郎は23歳で、石川啄木は26歳で、正岡子規は36歳で亡くなった。
若すぎる死だった。
シーレは16歳でウィーン美術学校に合格している。
彼が入学した翌年、シーレより1歳年上の、田舎出の痩せた青年が同じ試験を受け、不合格となった。再度受験したがまた失敗した。彼の名前はアドルフ・ヒトラーといった。