じじぃの「人の死にざま_653_徳田・秋」

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徳田秋声記念館ホームページ
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私の本棚、徳田秋声の黴
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徳田秋声 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
徳田秋声は、石川県金沢市生まれの小説家である。本名は末雄。
【経歴】
1872年2月1日(明治4年12月23日)現在の金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の第6子(3男)として誕生(翌年の誕生日が暦の変更のため来なかった事もあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した)。
1902年(明治35年)7月ごろ、手伝いに来ていた女性の娘の小沢はまと関係ができ事実上の結婚生活が始まった(入籍は2年後であった)。1903年明治36年)長男一穂誕生。同年 紅葉死去。
1910年(明治43年)の『足迹』、1911年(明治44年)の東京朝日新聞に連載した『黴』によって、自然主義文学の担い手として評判になる。しかし、その後の『爛』『あらくれ』もいずれも女性の生き方をテーマにし、女性を描くことの上手い作家という評価がある。作者自身の経歴を主とする作品には『光を追うて』『無駄道』などがある。また、通俗小説も多く書き、劇化・映画化されているものもある。
1924年大正13年秋田県から上京した美貌の山田順子を弟子とし、1926年(大正15年)に妻が死ぬと順子を愛人としてジャーナリズムを賑わしたのみか、「元の枝へ」など「順子もの」と呼ばれる短編群で復活した。しかし順子は慶大の学生勝本清一郎と恋をし、1927年(昭和2年)秋聲との正式結婚の直前に勝本の許へ奔った。秋聲は1935年(昭和10年)「順子もの」の集大成の長編『仮装人物』を完成、後期の代表作とされる。
島崎藤村正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立にも参加。また、戦争の時代に、政府が作家たちを組織しようとしたときに、今までの日本の作家はお上の世話にはならなかったという趣旨の発言をして、その試みを流産させたこともある。関東大震災直後には、『フアイヤガン』を発表し、デマにおどらされて消火器を爆弾と勘違いする博士の姿を風刺的に描くなど、時流に流されない批判精神ももっていた。1941年(昭和16年)に、『縮図』を新聞に連載したが、戦争に行く描写や、芸者の世界を書いたことで、当局から干渉をうけて、作品を中絶させた。そして続きは書かれずに、戦争中の1943年(昭和18年)に死去した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
徳田秋声(とくだしゅうせい) (1871-1943) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
秋声は、昭和9年63歳のとき、「私は近来ペンを持つ手が非常に顫(ふる)えるようになった。・・・・今後仕事をすることは相当に困難である」と書いたが、その後なお『勲章』『仮装人物』などの名作を発表した。
晩年の秋声の姿を、子の一穂は記す。
「冬には、自分で、大鉢の炭の中にタドンを入れて、それを床の中に入れた炬燵(こたつ)にうつし、床に就くのだったが、床を敷かずに炬燵にあたって、頭を本棚の柱にもたせ、静かに眼をつむって、瞑想しているような時も多かった。日当たりの悪い、貧弱な書斎で一人夜更けに、こうしている時の父の姿は、気の毒な感じのするほど物悲しげに見えたが、『こうして一人でいるのも亦(また)案外たのしいものだよ』と父は言っていた」
昭和16年、最後の長篇『縮図』を「都新聞」に連載中、情報局から中止させられた秋声は、翌年の夏から健康すぐれず、昭和18年7月中旬、3会にわたっておびたたしい鼻血を出して病臥した。
8月下旬、その22日に死んだ島崎藤村の葬式に列するために軽井沢から出てきた川端康成が、鮮魚を手にして見舞いに訪れた。
そのときのことを川端は記す。
「藤村の死に誘われて思う御自分のことを、短い時間話されたのだが、私はその言葉を覚えていないので、沈痛森厳な印象だけが残っている。・・・・私は藤村氏は秋声氏のように怠けられなかったから、と言った。秋声氏がうなずかれたので、私は更に、しかし小説家は怠けることが必要だと言った。秋声氏は深く肯定して、そうだ、小説家は怠けることが大切だ、怠けなくちゃだめだと強く言われた。それは激越な調子だった。凜烈な気迫に私は打たれてその話はそれで切れた」
このとき康成が、「怠け者は怠け者じゃない。怠けているのは怠けているのじゃない」というと、秋声が「そうだ、怠け者は怠け者じゃない、怠けているのは怠けているのじゃない」と答えたという記録もある。
このあと秋声は帝大病院に約1ヵ月入院し、肺ガンの診断を受け、10月下旬、本郷森川町の自宅の書斎で、11月18日午前4時25分死亡した。
そのとき秋声は苦しさのあまり寝床からはい出して枕元の机にしがみつき、机の上にはかきむしった爪跡が無数に残っていたという。

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