じじぃの「人の死にざま_601_徳田・球」

徳田球一 - あのひと検索 SPYSEE
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02 - 徳田球一 - 1946 動画 YouTube
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04 - 日共 六全協 - 1955 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=c1J2-WVFWwc&feature=related
徳田球一 まりのねっと
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徳田球一 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
徳田球一は、日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。
【経歴】
沖縄県名護市出身。
1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加。1925年(大正14年)、1927年(昭和2年)にもソ連に渡った。1928年(昭和3年)の第1回普通選挙労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、直後の2月26日に治安維持法違反で逮捕された。これが直後の三・一五事件のはしりとなる。徳田はそのまま獄中で18年を過ごした。
第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)10月10日に、府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄。連合軍を「解放軍」と呼んだ。日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後3期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚。
1950年(昭和25年)、徳田要請問題が発生し、証人喚問を受ける。コミンフォルムから批判を受け共産党が内部分裂。またレッドパージにより公職追放された。同年10月、中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。このとき、徳田は「安静にして余命4年」という健康状態であったが、この事実は幹部以外には秘匿された。徳田は引き続き党の全体方針決定をおこなうことが確認され、亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて武装闘争方針を指示した。しかし、やがて北京機関内部では国際派との妥協を唱える野坂参三・西沢隆二らとの対立が表面化する。1951年(昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。1952年(昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。1953年(昭和28年)に北京で病死。その死は1955年まで公表されなかった。同年9月13日に北京で開催された追悼大会は、3万人が参列した。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
徳田球一(とくだきゅういち) (1894-1953) 59歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和25年6月6日、マッカーサー日本共産党中央委員24名の公職追放の発表とともに、徳田球一野坂参三ら9人の中央委員は姿を消し、警視庁の大々的捜査にもかかわらず、そのゆくえは杳(よう)として絶えた。
実は徳田は、逗子、名古屋などのシンパの家を転々とした後、9月20日ごろ、四日市のアジトから小さな漁船に乗って、中国へ逃れていたのである。
以来彼は、側近ナンバーワン伊藤律らとともに、北京に滞在していた。
「徳田は糖尿や高血圧で、すでに北京で臥床していることが多く、半療養生活をしていたのだが、その年(昭和27年)の10月、最初の発作にみまわれて倒れた。
寒気がつよまり、風もでていたある日、徳田は伊藤と清朝故宮の散策にでかけていた。そして、風をよけた。故宮の庭の日なたで休息しているとき、かれは卒倒した。
伊藤が手配して、徳田は病院にはこばれた。それからしばらくして、機関の自室にいったんもどって、温暖な土地へ転地療養することになり、北京から姿を消した」(西野辰吉『首領』)
翌28年9月21日、「アカハタ」は伊藤律の除名を発表した。
その3ヵ月前の6月、徳田はふたたび北京病院に戻っていた。病気は、高血圧、動脈硬化、心筋硬化、糖尿病等による各症状であった。
それは一時好転していたが、彼の最も寵愛していた伊藤律の除名後、急速に悪化した。
「・・・・9月25日午後、口が左へゆがんでいる症状が現われ、治療を行ったが、症状は悪化した。
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1953年(昭和28年)10月14日午後5時21分、ついに死亡した」(徳田球一担当のソ中医師団の報告)
彼の死は2年近く秘されていて、昭和30年8月1日に至ってはじめて発表された。

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