じじぃの「人の死にざま_1154_北村・透谷」

北村透谷 - あのひと検索 SPYSEE
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2011-04-05の作曲&録音「北村透谷 秋窓雑記」 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JlFS6x7H4lY
北村透谷 楚囚之詩
http://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/834.html
北村透谷 ウィキペディアWikipedia)より
北村透谷は、日本の評論家・詩人。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。
【人物】
相模国足柄下郡で没落士族の家に生まれた。
1889年『楚囚之詩』を自費出版したが、出版直後に後悔し自ら回収した。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や木下尚江に衝撃を与えたという。
透谷の作品群は、上記の近代的な恋愛観からも窺えるように、ジョージ・ゴードン・バイロンラルフ・ワルド・エマーソンの影響下にロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し、人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している。藤村は『桜の実の熟する時』『春』において透谷の姿を描いている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
北村透谷(きたむらとうこく) (1868 - 1894) 26歳で死亡。 (一部抜粋しています)
16歳で自由党の軍資金獲得のための強盗計画に誘われ、脱落し、18歳にして多摩の豪農の娘石坂美那子と烈しい恋愛をしてその許嫁者(いいなずけ)をしりぞけて恋を成就し、20歳にして日本近代詩の暁鐘ともいうべき『楚囚(そしゅう)之詩』を発表した天才北村透谷は、その後、文学的にも生活的にもゆきづまり、肉体的にも衰弱し、明治25年ごろから精神分裂の微候をあらわし、26年にはのどをついて自殺を計ったが、未遂に終わった。以後彼はのどの傷痕を非常に気にした。
27年5月、精神異常がまた再発し、一種の痴呆状態となり、3つになる自分の娘をしきりに拝んだりする挙動があったが、5月16日、月に明るい夜、芝公園地20号4番地の自宅から、妻が寝静まるのを待って外へ出て、青い若葉のひろがった庭の木の枝で、首を吊って死んだ。
妻の美那子からの知らせで、友人の島崎春樹(藤村)と戸川明三(秋骨)が駈けつけると、透谷の屍骸は、彼らのよく知っている小さな家の暗い部屋に横たえられ、3つになる女の子がそばで遊んでいて、「お父さん、ねんね」といった。
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のちに正宗白鳥はいう。「一葉の夭逝(ようせい)は惜しむべきであるが、それよりも透谷の早世が一層惜しむべきであったと、私は今になって感じている」

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北村透谷 Google 検索
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