じじぃの「人の死にざま_663_高山・樗牛」

高山樗牛 - あのひと検索 SPYSEE
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朗読 朗読家 櫛部妙有朗読集 高山樗牛原作「瀧口入道」より 「時頼と横笛」0001 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=RpwyOwx3t1Q
高山樗牛 | 近代日本人の肖像
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/285.html
高山樗牛 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
高山樗牛は明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。
【年譜】
1871年2月28日(明治4年1月10日)現在の山形県鶴岡市に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。
1893年東京帝国大学文科大学哲学科に入学。土井晩翠らが級友であった。徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したという。
・1894年、読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選、新聞連載された(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)。『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。
・1897年、博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行った。
・1900年、文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。
・1901年、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(1901年)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。北村透谷の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。
・1902年、12月24日に死去(神奈川県平塚市の海岸に在った杏雲堂平塚病院)。墓所静岡市清水区の龍華寺で墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
高山樗牛(たかやまちょぎゅう) (1871-1902) 31歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治35年10月25日、樗牛は以前から病んでいた肺結核が悪化し、結核専門の平塚の杏雲堂病院にはいった。その翌日、妻に手紙を書いた。
「……昨夜は咳が出て咳が出て、どうも困りました。夜はうすぐらきあんどんにて、何もすることが出来ず、それに陰気で、いろいろ家の中の事ばから思いつづけました。(中略)どうか一月位で出たいものだと祈っております」
      ・
12月23日危篤におちいり、叔父に「自分は人生の光を見つけたが、これを世に伝えることは嘲風(ちょうふう)に頼みたい」と、それだけいった。彼の親友姉崎嘲風はそのとき仏教研究のためインドにいた。
樗牛は翌24日正午ごろから人事不省となり、午後1時30分ごろ死んだ。

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