じじぃの「人の死にざま_706_ビスマルク」

オットー・フォン・ビスマルク - あのひと検索 SPYSEE
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ビスマルク号を撃沈せよ! 予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=J_Th1rVxRNo
どうして、明治の政治家はビスマルクに憧れたのですか? Yahoo!知恵袋
やはり、ドイツのなかの一つの国であったプロイセンドイツ統一を成し遂げ、国際的にドイツという国の脅威を知らしめるぐらいに発展させた手腕というのは、かなり評価されるべきだと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153130551
オットー・フォン・ビスマルク フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
オットー・エードゥアルト・レーオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼンは、プロイセン王国の首相(在任1862年 - 1890年)、ドイツ帝国初代帝国宰相(1871年 - 1890年)。
プロイセン王ヴィルヘルム1世の右腕としてドイツ統一を目指して鉄血政策を推進し、普墺戦争普仏戦争を主導してこれに勝利。1871年にヴィルヘルム1世をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一の立役者となる。君主主義の保守的な政治家、優れた外交官でもあり、統一後も引き続きドイツを牽引した。
ビスマルク体制】
1862年、新国王ヴィルヘルム1世によってプロイセン王国の首相兼外相に任命される。
ビスマルクは統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相となり、1890年に引退するまで19年にわたって務めた。
内政面についてはカトリックに対する文化闘争を行い、プロイセン的な社会をドイツ全体に広げるような方針をとった。また当時勢力を拡大していた社会主義者に対する攻撃を強め、ヴィルヘルム1世が狙撃されたのを口実に1878年社会主義者鎮圧法を制定する。その一方で災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備するなど「飴と鞭」政策を採った。彼が打ち立てた社会国家像は、今日に至るまでのドイツの社会政策の基礎となっており、また日本の明治憲法体制にも影響を与えた。
外交面においては、ビスマルクは19世紀の後半を代表する外交官であり、ヨーロッパ各国を自在に操る優れた手腕を見せた。
ビスマルクはヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操ることでヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない状態を作り出そうとした。これがいわゆるビスマルク体制である。このビスマルクの思惑は当たり、ヨーロッパには第一次世界大戦まで続く小康状態が生まれる。
【逸話】
・日本の岩倉使節団プロイセンに訪問した際、伊藤博文大久保利通らと会見し、彼らに大きな影響を与えたと言われる。大久保は西郷隆盛に宛てた手紙の中で、ビスマルクモルトケを「先生」と呼び、その言説と人となりに大きな感銘を受けたことを綴っている。また、プロイセン憲法を真似た明治憲法を作成した初代総理大臣の伊藤博文は、首相に在任していた頃、常にビスマルクを意識して行動していたため、ある日宮中への参内が遅れたさい明治天皇から「東洋のビスマルクは未だ見えないね」とからかわれている(徳大寺侍従長の証言)。
・在任中、使節団と会見した際「大国は、自分に利益があるときは国際法に従うが、一度不利と見れば、たちまち軍事力に物を言わせてくる。そうした国際社会にあって、小国が主権を守るためには、軍事力に頼ることも必要である。なぜなら、それぞれの国が対等の力を持つことで初めてお互いが侵略せずに主権を守り合う。公明正大な国際社会が実現するからだ」(『米欧回覧実記』)と国際法に敏感だった日本に対して皮肉にも似た警告をしている。
・音楽にも通じ、名文家でもあった。
・「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」という名言は竹下登座右の銘にしていた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ビスマルク (1815-1898) 83歳で死亡。 (一部抜粋しています)
それまでドイツ人による小国の集合体に過ぎなかったドイツを、一大帝国として統一し、普仏戦争でフランスを破り、手品師のごとき老獪(ろうかい)きわまる外交術を駆使してドイツを盤石の安きにおき、鉄血宰相とうたわれたビスマルクも、彼を重用したウイルヘルム1世が死んで、孫のウイルヘルム2世があとをつぐと、小壮血気の新帝とたちまち衝突した。(このウイルヘルム2世がのちに第一次世界大戦をひき起こすことになる)
彼は追放同然に追われ、ハンブルグに近い一寒村フリードリッヒスリューに隠退した。ときに75歳であった。
隠退しても、ウイルヘルム2世は種々冷遇し、それに対して彼は皇帝を冷嘲した。
その生活は孤影索然たるものがあった。特に彼をして「おれは妻を残して死にたくない。さりとて妻の死後にも生きたくない」といわしめた妻のヨハンナが、彼の79歳のときに喘息で死んでからはいよいよきびしいものになった。
やがて彼は神経痛に苦しみはじめた。顔面ことに口辺に苦痛は甚だしく、ときには口をあけることができないこともあった。壮年時、いちどに卵を15個食い、またいちどに牡蠣(かき)を175個食ったこともあるビスマルクは、「これは食い過ぎの罰だ」と自嘲した。
80歳の誕生日のとき、お祝いに来た客が、なお彼の息災を祈るというと、彼は、「余もそれを欲する。ただしこの神経痛の苦しみさえなければだ」といった。また、「余にもこれから先、ただいちどだけ幸福な日が来る。それは、寝て、ふたたびさめぬ日だ」といった。
1898年7月30日の夜、彼はふいに胸部の疼痛を訴え、午後10時、眠るがごとく死んだ。病名は肺充血(肺炎)といわれたが。
ビスマルクが臨終の床にいるという時にどことか新築の橋の上を歩いていたそうでそれを見かけて敬礼した人が沢山あるというのは有名な話だ」(佐藤春夫『首くくりの部屋』)

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