じじぃの「人の死にざま_1157_川上・音二郎」

川上音二郎 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E/26612
川上音二郎一座 [明治の流行歌]オッペケペー節[日本人最古の歌声] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=8TuMWzJd6RM
川上音二郎 ウィキペディアWikipedia)より
川上音二郎は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。
【経歴】
1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、明治22年(1889)から明治27年、28年の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 
川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年(明治24年)2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年、フランスへ渡り、2ヵ月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。
1911年(明治44年)舞台で倒れ死去。「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。

                            • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
川上音二郎(かわかみおとじろう) (1864 - 1911) 47歳で死亡 (一部抜粋しています)
壮士芝居創始者たる川上音二郎は、最後までオッペケペー壮士芝居臭から脱却することが出来ず、晩年は興行成績も総じてかんばしくなかった。その原因は脚本にあると考えた彼は、妻の貞奴(さだやっこ)とともに有馬温泉にこもってみずから新台本の執筆にとりかかったが、ここで腹膜炎を発し、大阪の病院に入院し、4升も腹水をとり出したが、経過思わしからず、
「せめて自分の劇場で死なせてあげたい」
と発議した貞奴によって、大阪堂島の帝国座に運ばれ、明治44年11月11日の夜明け方、客のいない舞台の上で死んだ。
その最後は壮烈なもので「川上はパチリと眼を開き、数珠持つ手をあげて2、3度振り、何か指図するかと見えたが、にっこと笑うて息絶えたり」(大阪毎日新聞

                            • -

川上音二郎 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%9F%B3%E4%BA%8C%E9%83%8E&sa=X&oi=image_result_group&ei=Wo-aUYDECcL5kAXD8YCQBA&ved=0CCQQsAQ