じじぃの「人の死にざま_657_藤村・操」
藤村操 - あのひと検索 SPYSEE
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藤村操 1903/5/22
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藤村操 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
藤村操は北海道出身の旧制一高の学生。華厳の滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。
【華厳滝の自殺】
日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して自殺。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。
【遺書 巌頭之感】
ホレーショとはシェイクスピア『ハムレット』の登場人物を指すと言われている。
「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料が多いが、誤りである。
【自殺の原因】
自殺直後は、遺書「巌頭之感」の影響もあって、藤村は哲学的な悩みによって自殺をしたものと推測された。今日でもこのように考える者は多い。しかし、自殺の前に藤村が失恋していたことが明らかになり、これを自殺の原因と考える者もいる。恋慕の相手は、菊池大麓の長女多美子である。なお、藤村の自殺の年に多美子は美濃部達吉と結婚した。また、自殺ではなく自決だとの考えもあり、自らの命を軽んずる自殺とは違い、恥の文化による武士道精神に則った行動との解釈も存在する。事実、藤村の死は日露戦争を前に、巨大な西洋文明に対峙し、足下をゆるがされていた多くの知識人を大いに勇気づけた。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
藤村操(ふじむらみさお) (1886-1903) 17歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治36年5月22日、美少年の一高生藤村操は、日光華厳の滝の落口ちかい大樹を削って、
「巌頭之感」
「悠々たる哉天壤(てんじょう)、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす、ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す(つく)、曰く「不可解」。我この恨を懐(いだ)いて煩悶、終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大(おおい)なる悲觀は大いなる樂觀に一致するを」
と墨書して、滝壺に投身自殺した。
この報を聞いて、一高の英語講師夏目金之助は、生徒に、
「君、藤村はどうしてしんだのだい?」と、不安そうに尋ねた。それは、その一週間ほど前、2度も藤村が訳読して来ないことに夏目講師が立腹して、「勉強する気がないなら、もう教室へ出て来なくてもいい」と叱責したことを思い出して狼狽したからであった。
この遺書を読んで東大哲学教授井上哲次郎は、「ホレーショ」の哲学などたいしたものではないといって、笑いものになった。
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しかしこの遺書とその死は、当時のみならずその後数十年にわたって、内省的な青年たちに甚大なる感動を与えた。それは日本ではじめて、人生の意味を求めて自殺した若者に対するショックのゆえであった。一高で1クラス上の岩波茂雄は「晴天霹靂(へきれき)の如く荘厳がい切なる大文字」と評し、この「巌頭之感」を読んでは泣き、読んでは泣き、岩波も自殺するのではないか、と友人の安部次郎や安倍能成を心配がらせたほどであった。