じじぃの「ムンク・『思春期』!怖い絵」

NHK出版 生活人新書 「怖い絵」で人間を読む PV 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Uv0lmuwSs-k
Edvard Munch Paintings 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Au3XvuYdCcE
思春期

叫び

ムンク Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF&um=1&ie=UTF-8&source=univ&sa=X&ei=sCxxTZyGFIiavgPBy-G9AQ&ved=0CEMQsAQ
日曜美術館 「夢のムンク 傑作10選」 (追加) 2013年6月16日放送 NHK Eテレ
【出演】斎藤環精神科医)、五木寛之(作家)、吉行和子(女優)
今年はムンク生誕150年。母国ノルウェーでは大規模な展覧会が開かれ、ムンクイヤーに沸いている。今回は、10枚の傑作でムンクの実像に迫る。
「一度見たら絶対に頭から消えない」。五木寛之さんがそう語るムンク「叫び」。得体の知れない絶叫に耳をふさぐ奇妙な人物は、ムンク自身の姿。それは、ムンクの実体験をもとに描かれたものだった。夕暮れ時、赤く染まった空の下で、突然聞こえてきた「自然を貫く叫び」。ムンクはその体験を何度も繰り返し描き、狂気を絵にしようとしたのだ。
ノルウェーに生まれたエドワルド・ムンク(1863〜1944)。ムンクは生涯、生きることの不安や恐れを見つめ、さまざまな体験をもとに作品を生み出した。結核で亡くなった最愛の姉を描いた「病める子」。女性への憧れと恐れが交錯する「マドンナ」。そして生涯描き続けた自画像。
今なお強烈なインパクトを放つ、ムンク作品の秘密を読み解く。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2013/0616/index.html
『怖い絵』 中野京子/著 朝日出版社 2007年発行
ムンク−作品『思春期』 (一部抜粋しています)
かっと眼を見ひらいた少女が、裸で簡素なベッドに座っている。
ちょうど子どもから大人の女性への過度期にあたる、どこか痛々しいような身体つきだ。薄い胸、ぺたっとした髪、骨ばった方、ひょろりと長い手足……幼いふっくらした頬に似合わない張りつめた表情だけが妙に大人びている。視線は強い。とはいえこちらを見据(みす)えるというより、見えない何かにじっと目を凝(こ)らしているかのようだ。
リアルな身体描写に比べ、背景はぞんざいである。壁も床も、素材が木なのやら漆喰(しっくい)なのやらわからず、ベッドも遠近法を考えてを考えていない。時に枕は、ただ適当に線を引いただけなので、シーツとの差が曖昧だし、質感が全くない。光源もはっきりしない。大きな黒い影は勿論リアリズムからはるか遠い(それこそが絵の核となっているのだが)。
部屋が不必要に寒々(さむざむ)と見えるのは、モデルに対する描き手の温かさや愛情が感じられないせいだろうか? それとも単に色数が少なく抑えられているからか?
いずれにせよ、誰もが真っ先にこの絵から感じられるのは、強烈な「存在の不安」とでもいうべきものであろう。
よく言われるのは、これが初めての生理現象に戸惑う少女像であり、シーツや手足に血が付着している、との指摘である。夜中に初潮を迎えた少女が不安で起き上った、という物語付けなのだが、賛成しかねる。確かにその年頃の少女には違いないけれど、そういうシチュエーションで裸体は不自然だし、ベッドに掛け布団が見当たらないのもおかしい。仮にリアリズムは追求されなていないのだとしても、血は必ず表現されていなければならないだろう。ところがシーツに染みはない。
物語派は、おそらく左腿あたりのシーツ上を指してそう言うのだろうが、他のムンク作品による血の描写(『マラーの死』には、まさに血まみれのシーツが出てくる)のなまなましさと比べると、これを血と呼ぶには無理がある。色合い自体、枕付近の翳(かげ)と同じなので、座ってできたシーツの皺かと思われる。まして両手、膝下、そして右足の赤みを血の滴(したた)りとするのは明らかに間違いで、ムンクが肌に射す翳をあらわすとき使う朱色にすぎない。『病んだ子』の白い手指にも、また『思春期』と同年に描かれた『自画像』のタバコを持つ手の甲にも、同じ彩色表現がなされている。
ただ、見る側がそう誤解してしまうのもやむを得ないほど、ここには肉体の突然の変化に直面した少女特有の不安が醸(かも)しだされている。例の『叫び』が発表されたとき、ベン・シャーンが、「ムンクは叫びというものを、それまでにない別のものへと変えてしまった」と評したが、同様にこの『思春期』によってムンクは、思春期の「怖さ」というものを描ききったと言えるだろう。『叫び』における、橋の半ばで顔を両手で押さえ悲鳴を上げる人間の、異様に単純化された体、狂おしく渦巻く赤い空や歪んだ景色は、当時にあっては驚くほど斬新(ざんしん)な表現だったにもかかわらず、見る者みんなが直ちに画家の言わんとすることを理解できた。この思春期の少女像についても、存在の不安を抱える近・現代人にとっては、決してわかりにくいものではない。だからこそ実際には描かれていない血まで、見たように錯覚してしまうのだろう。
      ・
『思春期』は『叫び』の翌年、31歳で描かれた。しかし初制作はさかのぼること10年近くも前で、あいにくそれが火事で焼失してしまったためもう一度描き直した、これは本人によるレプリカである。タイトルは最初『夜』だった。そのままなら、シーツや腿に血が見えるとの主張はなされなかったかもしれない。
成熟過程にある少女が身体の異変を感じるのは何も「その瞬間」だけではない。それよりかなり前から、何かが身内に蠢(うごめ)いているようで落ち着かず不快だし、いざ子ども時代が終わった証拠を突きつけられた後もかなり長く、自分が自分でない何かに化けてしまいそうな不安を感じ続ける、この絵はそういう長い変容期=思春期の闇を視覚化したのであって、現実に血を見た一夜をなまなましく再現したわけではないだろう。
人は変化を恐れる。それこそどんな小さな変化にも身構えずにいられないのだから、子どもから大人になるという未知との遭遇が、自己崩壊の危機に通じるのも当然だ。芋虫(いもむし)が脱皮するように、自分が蝶になることはわかっている。わかっていても脱皮し終えるまでの時間(これが存外長い)の無防備さに、戦慄せずにおれない。羽根がまだ濡れて飛べず、どこへも逃げようがないのだ。芋虫にも戻れず飛べもしない蝶として少女は、貧弱な身体をじっと強張(こわば)らせるばかりだ。
そんな少女の怖れや不安が、黒い不気味な影となって、まるで少女の全身から立ち上る黒煙のようにぼわんと横にある。壁に映ったリアルな影ではなく、実質を備え、手で触れることのできる生き物のように宙にある。神秘主義に傾倒していたムンクは、当時さかんだった心霊写真からこうした形態を思いついたと言われているが、何であれこの表現の効果は圧倒的だ。もしこの絵にこの黒い丸い影がなかったらどうなるか? 手で隠して見ればわかるが、ずいぶん平凡な作品になり下がるだろう。すばやい荒いタッチで描かれたこの影こそが、絵の命である。

                                    • -

どうでもいい、じじぃの日記。
ノルウェームンクは国民的な画家だ。
5歳のとき母親を結核で亡くした。14歳のとき同じ結核で仲の良かった姉を亡くした。父親はムンクが25歳のとき亡くなり、弟もその後すぐ亡くなった。妹は精神病院に入れられた後亡くなった。彼自身も虚弱な体であった。
ノルウェ−は北欧の国である。1年のうち冬が半年も続く。このようなノルウェ−の風土と家庭環境がムンクの作品に影響していたのだろうか。
『思春期』の少女は怯えた表情で、描いているムンクをじっと見つめているようだ。彼女の背後にあるのは巨大な黒い不気味な影だ。
描いているムンクがそうさせるのか、彼女は怯えた表情で緊張しているように見える。
彼女の背後にある黒い不気味な影は彼女の「思春期」を誇張して表現しようとしたのだろうか。
『叫び』の男の背後には黒い影がないが、描かれた姿そのものが巨大な黒い不気味な影のように見える。
彼が描きたかったのは、もしかしたら巨大な黒い不気味な影なのかもしれない。
その影は「死」なのかもしれない。
ムンクはもしかしたら、ずっと死を怖れて、それを表現しようとしていたのかもしれない。
いつか誰にでも訪れる死を。