じじぃの「人の生きざま_70_吉行・あぐり」

吉行あぐり - あのひと検索 SPYSEE
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"素晴らしき日々へ" from "あぐり" played by ocha 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Rhkys31k_iM
吉行あぐり 102歳のことば Google ブックス
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文藝春秋 2016年4月号』 文藝春秋WEB
没後一年、母親の最期の日々を初めて明かす
吉行あぐり107歳の看取り記   吉行和子
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1826
ドキュメントにっぽん 「吉行あぐりと8人の客」 1997年9月12日 NHK
【語り】堀尾正明アナウンサー
東京・市ケ谷に70歳以上のお客だけが訪れる「吉行あぐり美容室」がある。吉行あぐりさんは、90歳(※ 放送当時)の今も現役である。
番組では、美容室の中でのあぐりさんの仕事への徹底したこだわりを描き、客とのひと夏の時間の流れを記録する。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999709120130197/
吉行あぐり ウィキペディアWikipedia) より
吉行あぐり(1907年(明治40年)7月10日 - 2015年(平成27年)1月5日)は、岡山県岡山市出身の日本の美容師。本名・吉行安久利。
【人物】
1997年度上半期(4月-9月放送)NHK連続テレビ小説あぐり」のモデルでもある。彼女自身の半生記『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』が原作となっている。
最初の夫は吉行エイスケ吉行エイスケの死後、辻復と再婚。吉行エイスケとの間に長男・吉行淳之介(小説家)、長女・吉行和子(女優)、次女・吉行理恵(詩人、小説家)がいる。長女以外は故人。
姪(姉の娘)は医師の島村喜久治の妻。その夫婦の息子が地震学者の島村英紀

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『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
吉行あぐり(美容家) 飄々とした佇まいの中に秘めた、明治女の強い意志 (一部抜粋しています)
元気であってもさすが97歳(※ 2005年当時)で足元が危ういから、取材の時には和子さんが自身の仕事を調整して同行する。今回、取材が始まる前に、和子さんが私に小声で「今朝、母は一人でバスに乗ってどこかへ行ったみたいなんですよ」と。驚いた私はつい本人に聞いてしまった。「一人でバスになんかお乗りになって大丈夫だったんですか?」
あぐりさんは少しバツが悪そうに、
「もう聞いたの? そうなんです。今年になりまして急に足がダメになりましてね。夏が篤うございましたでしょ。以前は毎日散歩しておりましたけど、それが原因でサボっておりましたのよ。でも今日はうららかで風邪もないから、停留所を3つばから乗って、お知り合いの方にお送りするお菓子を買いに行ったんです」
そのバスの中で、
「何とか席、優先席? この歳ですからね。優先席に座ります。そうしますと、あとからヨロヨロとなさった方がいらして、私の前に立つんです。この方きっと私よりお若いと思うけれど、でもヨロヨロしていらっしゃるから、私が席を替わったりして」
私は噴き出してしまった。字面ではわかりにくいだろうが、あぐりさんのとぼけたような語り口と"間"が、実に可笑しいのだ。
「自分では全然わかりませんけど」
と、また飄々としている。
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英助氏の放蕩は嫌ではなかったのか?
「嫌もくそもないですよ、ほとんどうちにいなかったんですから。喧嘩をする暇もないんです、私も(美容室が)忙しいですし。うちにいてもらいたいと思わなかったでしょうね(笑)。やっぱり足りないんですね、私は。そう思います。でも淳が小さい時はよく3人で小石川の植物園に行きました。英助さんって子供にはとても良かったんだと思いますよ。悪気のない、いい人だったんです。それも今になってわかるんですけど(笑)」
そして一番つらかったであろうことを聞いた、依然、「お孫さんは?」と訊くと「あそこは奥さんがしっかりしてますから、寄せつけて頂けません」と小さく笑った。
息子・淳之介をめぐる女性たち・・・・。
「こんなこと言っていいのかわかりませんけど、淳にまだ子供が生まれる前、『淳之介の財産はみんな妻のものです。あなたには何の権利もありません』って言われたんです。何でこの人は私にこんなことを言うのかと思って、淳に『あなたのお嫁さんはこんなこと言うんだけど、どういう訳なの?』と言ったら、(爽やかに)『そうですか。そういうことを言いましたか。それなら話はやりいいや』と、こう言うんですよ。だから私はますます何のことなんだろうと思って・・・・。淳が死んでからその意味がわかりました。あなたなど(お金をめぐる人々の争いが)想像がおつきにならないでしょう?」
いや、十分に想像がつく。金というものがいかに人を変えるものか、その醜さも。
「でもこの連中(あぐりさんは和子さんたち子供のことをなぜか"連中"と言う)もよく耐えたと思います。本当にひどかったですから、この人(和子さんを見て)に対しても」
「もうご存じですね。淳が一緒に住んでいた方のこと。やはり前の奥さんとの対抗上でしょうね。私に(甘えるように)『ママぁ、ママぁ』とおっしゃって大変だったんです。『私ね、淳が死んだらすぐ死ぬのよ』と言うような方だったの。私は『ああ、そう』って聞いていたので。『そんなこと言わないで』なんて言うべきたったでしょうけど(笑)」
1994年夏、作家吉行淳之介は70歳で逝った。
「とにかく私を排除しなければいけないことがあったんでしょうね。私は別室に入れられまして、そこでいました」
わたしは以前、ある人から聞いたことがある。「あぐりさんも和子さんも、一切争わなかった。実にきれいな母子だと思ったよ」
あぐりさんは淳之介氏が遺した物は、その日記に至るまで何1つ受け継いでいない。
「私は本当に人間がトロいんですね。淳がまだ元気だった頃、平気で淳に電話をかけてたんです。物を書いている人ですから普段はかけてはいけないと思いますけど、お天気の悪い日は、喘息(ぜんそく)を起こしてはいないかなと思ってかけますのよ。全然気がつきませんでしたけど、それはその方(淳之介と暮らしていた女性)にはとっても嫌なことだったんです。その方を通さずに私が淳に電話かけることが」
あぐりさんが自分に直接電話をかけてくるとその女性がとても荒れるから彼女を通してくれないかと、和子さんが淳之介氏に言われ、初めてあぐりさんは知ったのだ。
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97年の人生で一番つらかったのはいつかと聞いた時、初めてその表情が動いた。
「淳が亡くなりましたことが一番辛いです、今でも」
その目は潤んでいた。
当時、あぐりさんは日記に書いた。和子さんもその内容を知らない。出版社から公開するようずいぶん勧められたが、固辞したという。誰にも吐露せぬ憤りや辛さを、あぐりさんは綴ることのよってやっと耐え、封印したのだ。
「人間って、きっと生まれた時から、死ぬ時が決まってるんですよ、そう思わないと諦められません。淳はいい時に死んでよかったんだなと思います。ホントよ。だから私なんてね、いつまで生きてるのか怖いですよ。もういいかげんで、いいの(笑)」
しかし、こうも言った、
「この歳になりますとね、本当に何でも有難いですよ。ご飯を食べることだって有難いですしね。お水を飲めることだって有難いと思いますし」
話にくいことを話して下さった。いや、話させてしまった。静かな甥の顔を得た人ほど、その向こうには越えてきた辛酸がある。それを掘り起こそうとした私を許してくれたあぐりさんに、深く感謝する。
吉行あぐりは、やはり明治の女である。運命に逆らわず、置かれた環境の中で黙々と生きてきたのだ。その一徹さを、私は立派だと思う。はるかな明治の空気を、ほんの少しだけ吸わせてもらったような気がして、私は嬉しかった。

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吉行あぐり Google 検索
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