じじぃの「人の死にざま_1181_吉行・淳之介」

吉行淳之介 - あのひと検索 SPYSEE
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吉行あぐりと子どもたち 写真
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- - - 吉行淳之介文学館 - -
吉行淳之介文学館は、吉行さんの生涯のパートナー・宮城まり子さんが園長をつとめる「ねむの木学園」の傍にオープンしました。
http://www16.ocn.ne.jp/~yoshiyk/kakegawa/
吉行淳之介 ウィキペディアWikipedia)より
吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年(平成6年)7月26日)は、日本の小説家。代表作に『驟雨』『砂の上の植物群』など。対談やエッセイの名手としても知られた。
【来歴・人物】
岡山県岡山市に父・吉行エイスケモダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれ、東京麹町に育った。
1952年『原色の街』が芥川賞候補になるが落選。その後『谷間』、『ある脱出』で候補に上るが、いずれも落選。『谷間』発表後、肺に結核による空洞が見つかり会社を休職、翌年に退社した。清瀬病院で肺切除の手術を受けて療養中、1954年『驟雨』で第31回芥川賞を受賞し、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、吉行と同世代の作家、遠藤周作安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らは「第三の新人」と呼ばれた。
1994年、肝臓がんのため聖路加国際病院で死去。70歳。
【女性関係】
彼の文学のテーマ同様に女性関係においてもその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻・吉行文枝との間に女児が一人いた後別居し(娘とは親交があり、一時は吉行、宮城とともに暮らした)、結婚後約10年後に知り合った女優・宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶・パートナー(母吉行あぐりをはじめ親族とも緊密であり、吉行の没後にあぐりの決断で宮城が葬式一切を取り仕切ることとなった)となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』で、高山が『特別な他人』で、宮城が『淳之介さんのことで、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』で、それぞれの体験を公表している。

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『人生の終いじたく だって気になるじゃない、死んだ後のこと。』 中村メイコ/著 青春出版社 2010年発行
かけがえのない初恋の君、吉行淳之介さん (一部抜粋しています)
まだ10代の少女だった頃、私は恋をしました。相手は作家の吉行淳之介さん、当時はまだ小さな雑誌社の編集長をしていらっしゃいました。
幼い恋は実らず、やがて神津善行さんという国立音楽大学の男の子と恋に落ちて結婚し、子どもも3人できました。人妻になってからも、吉行さんとは七夕の織姫と彦星のように年に一度、デートを重ねてきました。神津サン公認のデートです。
吉行さんが初恋の人であることを隠したことは一度もありません。むしろ、おおっぴらにしていたといっていいほどです。肉体関係が一度もない、少女の無邪気な恋だったからでしょう。
あれは30代の頃でした。年に一度のデートで、私は吉行さんに、
「初恋の人は吉行さんです、っていうのがいやになりました」
「なぜだい?」
「おいしいうなぎが食べたくて、わざわざ宮川の本店へいったとするでしょ。で、店に入って『出前もいたします』という貼り紙を見たら、ちょっとがっかりするじゃない?」
「……」
「初恋の人は吉行さん、って私がいいだした頃は、まだ芥川賞もとっていらっしゃらなくて、今みたいに有名ではなかった。世の中のほとんどの人たちが作品はおろか、名前すらきいたことがなかったのに、今はもうすっかり有名になられた。そうなった今、じつは私の初恋の相手は吉行淳之介なんですよ、っていうのは、うちの夫は東大出なんですの、というのとどこか似ていません? 宮川の本店の貼り紙と同じ、ちょっとがっかりです」
「宮川のうなぎの話がいきなり出たときには、どうなることかと思ったけれど、おもしろい話だね」
初恋の人が著名な作家、吉行淳之介ではなくて、無名時代の吉行さんだったということに、私はプライドみたいなものを感じています。
その吉行さんに、ひとつだけこぼしたいことがあります――。
吉行さんは女優の宮城まり子さんと長年、上野毛(かみのげ)のお宅で一緒に暮らしてこられました。奥様が離婚に応じられなかったので、宮城さんとは結婚はできなくて、同棲のままだったのです。
吉行さんが70歳で亡くなられたのは、1994年です。吉行さんの死をもっとも悲しみ、沈んでいるだろう宮城まり子さんが、私にいいました。
「若き日のメイコちゃんが淳チャンに書いた手紙もちゃんとあったよ。淳チャン、残していたのよ」
思わずうれしくなって、「本当? その手紙どうした?」。
「悔しいから焼いたよ。あなたもそんなものが残っていたら困るでしょ、神津サンにも、お子さんたちにも。だから、焼いた」
自分のなつかしい手紙を焼かれたというのに、「あっ、そう……」と答えるのが精一杯でした。私が生涯、経験できなかった、ドロドロした隠花植物のような、ジメジメした恋というものをはじめてまのあたりにした思いでした。
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70歳近くになられた吉行さんが突然、「もうぼくは人前に出る歳じゃないから、年一度のデートはごめんこうむる」とおっしゃいました。長く長く続いた七夕デートは終わりをつげたのです。
そのあとも、ときどき電話ではお話していました。おたがいにテレパシーが働くのか、天の啓示みたいに、あっ、今ならまりちゃんじゃなくて吉行さんが出る、と思える瞬間があります。そして、ふしぎなことに、はずれたことはないのです。
その日もそうでした。今だ、今だ、とドキドキしながら電話をかけると、「もしもし」とくぐもった声がしたのです。「ああ、よかった」。「勘がいいねえ。出かけてるよ」。
それからまもなくして、吉行さんはお亡くなりになりました。あれが最後の電話になりました、何を話したのか、今では覚えていません。覚えているのは、最後もまたテレパシーが働いたということ。

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