じじぃの「人の死にざま_993_柴田・錬三郎」

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眠狂四郎円月殺法 OP 動画 YouTube
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時代劇映画 「眠狂四郎」 市川雷蔵  ep4-5-7 jp old movie 動画 ディリーモーション
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柴田錬三郎 ウィキペディアWikipedia)より
柴田錬三郎は、日本の小説家、ノンフィクション作家、中国文学者。本名は斎藤錬三郎。シバレン(柴錬)という通称でも名高い。幕末の志士である清河八郎は大伯父にあたる。
歴史小説に新風を送ったことで業績は名高い。『イエスの裔』は芥川賞直木賞の両方の候補となったが天秤にかけて直木賞を受賞し、その後選考委員となる。代表作に『眠狂四郎』『御家人斬九郎』『水滸伝』『徳川太平記』など多くがあり、戦国・幕末を扱った作品が多く、剣客ブームを巻き起こした。
【戦後】
1956年(昭和31年)から、創刊されたばかりの『週刊新潮』に連載された『眠狂四郎』シリーズでは、戦後を代表するニヒル剣士の眠狂四郎を登場させ、読み切りという斬新な手法をとった連載手法と通俗的な要素を織り込み、剣豪小説の一大ブームを巻き起こし、「剣豪作家」のイメージが定着した。後期の現代小説では『チャンスは三度ある』などがある。1969年に『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞した。
1966年から直木賞の選考委員となり、柴田が選考委員をしていたこの間の受賞者にから、五木寛之野坂昭如陳舜臣井上ひさし藤沢周平といった弟子が数多く輩出された。他、小説現代新人賞の選考委員も務めた。次いで今東光と共に「文壇野良犬会」を結成し、水間寺での住職権限を争う大乱闘や梶山季之の急逝における葬儀争奪戦での役回りなど、數山の僧兵かと見まがうがごときの活動も繰り広げた。この野良犬の会には、黒岩重吾吉行淳之介陳舜臣田中小実昌野坂昭如戸川昌子長部日出雄井上ひさし藤本義一といった弟子たちも参加した。
随筆・エッセイも多数発表している。また、「3時のあなた」(フジテレビ)や「ほんものは誰だ?!」(日本テレビ)など、テレビ番組への出演も晩年まで積極的に行うなど、現代で言う文化人タレント的な一面も持っていた。
肺性心のため、慶應義塾大学病院で死去した。享年61。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
柴田錬三郎(しばたれんざぶろう) (1917-1978) 61歳で死亡。 (一部抜粋しています)
柴田錬三郎は昭和52年「読売新聞」に『曲者時代』という作品を連載中、あと、20日分で終ろうとする9月、過労のため体重38キロほどになり、慶応病院に入院した。その日は24時間昏睡状態がつづいたが、翌日からの点滴で熱が下っている間、1日分ずつベッドの上で書きつづけ、それを完結させた。見ていても命をけづっているような姿であった。
それ以来入院生活をつづけましたが、毎日ひげをそり、朝は洋服に着がえて新聞を読み、月に何回かは美容師を読んでシャンプーするというダンディズムは崩さなかった。
やがて体重は48キロに回復し、週刊誌に連載中断していた『復讐四十七士』の連載を再開した。
昭和53年6月10日、彼は前年まで担当医であった慶応の若い医師の結婚式に出席し、このときに風邪をひき、それがひきがねとなって肋膜炎を起し、また体重が41キロになった。
娘の美夏江は語る。「父はこれでガッカリしたんだと思います。何もかも面倒になったみたいで、横になったまま口もきかなくなりました。何か虚無的になって、回復する意欲もなくなったようでした」
6月29日の午後10時半ごろ、突然生きづかいが荒くなり、それが4時間ほどつづき、意識が次第にうすれていった。主治医が駈けつけて、酸素テントをかぶせたとき、発病以来いちども苦痛を訴えたことのなかった柴田が、はじめて「苦しい」と二度訴えた。それが最後の言葉となり、30日未明に「眠狂四郎」は永遠の眠りに落ちた。
死因は、肺炎と肋膜炎による肺機能の低下が心臓にとどめをさした「肺性心」であったとされるが、前年来彼を憔悴(しょうすい)させていた病気は血液ガンと呼ばれる白血球であったといわれる。
その朝急報を聞いて駆けつけた吉行淳之介は書く。
「相変わらず渋い表情だったが、いつも気むずかしく口をへの字に結んでいるために顎(あご)のところに盛りあがっていたもの(われわれはそれをウメボシと呼んでいたが)が消え、閉じた眼尻のあたりにやさしさが浮かんで、安らいだ顔だった。(中略)もともと長生きするタイプの人物ではなかった。人生のあらゆる面を、思い残すことなく生きることが出来た。そういうもろもろのことが、あの死に顔の安らぎにつながる、と私は感無量に眺めた」

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