じじぃの「人の死にざま_992_黒岩・重吾」

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映画評論 背徳のメス
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黒岩重吾 ウィキペディアWikipedia)より
黒岩重吾(くろいわじゅうご、1924年2月25日 - 2003年3月7日)は日本の小説家。
【来歴・人物】
大阪市生まれ。父方の祖先は和歌山県新宮市の廻船問屋。旧制宇陀中学(現・奈良県立大宇陀高等学校)、同志社大学法学部卒。同志社大学在学中に学徒出陣し、北満に出征する。
1959年源氏鶏太の紹介で司馬遼太郎と知り合い「近代説話」の同人となり、1960年に「青い花火」が「週刊朝日」「宝石」共催の懸賞に佳作入選。同年、書き下ろしで『休日の断崖』を刊行し、直木賞候補となる。
翌年に釜ヶ崎を舞台にした『背徳のメス』で直木賞を受賞している。
以後、「西成モノ」を主に、金銭欲・権力欲に捕らわれた人間の内面を巧みに抉った社会派推理・風俗小説作家として活躍した。
1963年、日本推理作家協会関西支部長に就任。『裸の背徳者』や、戦災孤児をテーマにした全5部の大作『さらば星座』などの作品がある。直木賞選考委員、奈良文学賞選考委員を務めた。

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『人に定めなし』 黒岩重吾/著 角川文庫 2003年発行
二人の作家の死 (一部抜粋しています)
作家にもサービス精神の旺盛な者がいる。そんな一人に、私を兄貴と呼んでくれた故梶山季之(かじやまとしゆき)がいた。
昭和30年半ば「黒の試走車」でデビューした梶山はあっという間に流行作家になった。産業スパイ小説という分野も梶山によって拓(ひら)かれたといって良い。編集者に徹底的にサービスする梶山はどんな注文も断らず、官能分野にも手を拡げ、月に四百字詰め原稿用紙にして千枚近く書いたのではないか。
梶山はよく私や故柴田錬三郎や故吉行淳之介たちとドボンというカードをしたが、遊ぶ最中によくふざけた。
本当にギャンブル好きではなく、サービス精神で仲間に加わったような気がしないではない。それはドボンをする時、よく酔っ払っていたからである。
カードのような集中力の要るギャンブルでは、酔っていてはまず勝てない。時には大当たりすることもあるが、稀である。
      ・
昭和50年(1975)の4月末、地方の講演旅行を終えた私は何となく東京により二泊し原稿を書くことにした。
当時は月に四百字詰めの原稿で4、500枚書いていた頃である。旅先でも必ず書く。ヨーロッパ旅行の時など飛行機の中でも書いたものであった。
2日目の夜編集者のM氏に会い、連休の合間だったので銀座に出た。馴染みのクラブで飲んでいると、他の店で飲んでいた梶山が私の匂いを嗅(か)ぎつけてやって来た。
後で知ったのだが、
「兄貴が来た」
といって会いに来たらしい。
確か10時過ぎだった記憶があるが、その夜は、昔の思い出話などをして席が盛り上がった。
たとえば当時親しかった柴錬さんこと柴田錬三郎と三人で講演旅行をした時の話がよく出た。
四国の何処かだったと思うが、柴錬と私がドボンをやっていると、ビヤ樽のような芸者を連れた梶山が午前零時ごろ、顔を出した。それから酔った時の癖の大きな舌を出して私だけをからかい自室に戻った。今日はドボンをしないのか、と問いかけたが肩を竦(すく)めて姿を消した。
どう考えてもあの芸者は閨(ねや)の相手ではない。
午前3時頃、自分の部屋に戻ってみて仰天した。何と浴衣(ゆかた)姿のあの芸者が掛け蒲団(ぶとん)からはみ出し、大根のような腕を投げ出して大鼾(おおいびき)で眠っている。
部屋を間違えたな、と梶山の部屋に行ってみると、ちゃんと寝ている。叩(たた)き起こして、何故芸者を私の部屋に寝かせたのだ? と詰め寄りたいところだが、余りにも気持ちよさそうに寝ているのを見ると武士の情けで起こせなくなった。
仕方なく柴錬さんお部屋に行き話すと、
「黒岩と二人で寝るのは勘弁せよ」
苦虫を噛み潰(つぶ)した顔で断る。
「別の蒲団や、俺だって嫌だよ」
寝具の入った襖(ふすま)を開けると予備の蒲団があったので、離れて敷いて寝た。
翌朝、梶山に真意を問い詰めても、酔っていて覚えていない、の一本槍(いっぽんやり)である。
だが東京で会った夜にその話も出、会話がはずんだ。
「いやいや、あれは黒さんへのプレゼント」
「冗談いうな、旅館まで連れて来て、余りのビヤ樽に放ッぽり出したのが真相だろう」
私たちは大笑いした。
ところが普通なら午前零時を過ぎると姿を消す梶山がその夜は席を立たない。結局2時過ぎまで飲んでいただろうか。
旅行の途中でもあり私はいささか疲れ、先に帰ることにした。
梶山は、私とM氏が車に乗り出すまで見送っている。そういえばこれまで梶山に見送られたことは一度もなかった。
「おかしいな、今日の梶さん、何かあったのかなあ」
リアシートから振りかえると、背の高い梶山は影のように立ち、まだ見送っていた。
梶山が香港に行き、客死したのはそれから3日後だった。
皆に48歳といっていたが、実年齢は45歳だった。昭和50年、流行作家として脂の乗り切った年齢で余りにも早すぎる死であった。
      ・
そういえば柴錬と病院でドボンをした時も妙だった。
見舞に病院に行ったのだが、柴錬の方からドボンをしようといい出し、カードをはじめた。
柴錬のカードの腕は抜群で、滅多に負けない。負けても僅かで勝つ時は大勝である。最初にも述べたが、ギャンブルには忍耐が大事である。
私は最初から見舞をする積りだったから、危険な札を見ても大きく張った。信じられないことだが、それが全部私の方に入る。私が親になると、柴錬も大きく張ってくる。ところが殆どが私の懐(ふところ)に入る。1時間足らずだったが、ドボンをして初めてといっていいほど柴錬から勝った。
丁度、食事の時間になったので打ち切ることができたが、続けていればと思うとぞっとする。
「見舞に来て、何だか悪いなあ」
「なあに退院したら取り返す」
柴錬は口をへの字に結んだが、何時もと異なり何処か弱々しかった。
二度目に見舞に行ったのは亡くなる少し前だった。ドボン好きの柴錬からはドボンのドも出なかった。殆ど無言だったが、天城を向いたまま、
「くたばり損ねた」
死に損なった以上、生への希望が滲(にじ)み出ている筈だがその時の口調は何処か投げやりな感じがした。
私は強く柴錬の死を感じた。

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