じじぃの「人の生きざま_268_安岡・章太郎」

(おくやみ)安岡章太郎氏が死去、92歳 「悪い仲間」で芥川賞 2013/1/29 日本経済新聞
 敗戦体験などを通じてシニカルな小説を世に送り出した文化功労者の作家、安岡章太郎氏が26日午前2時35分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。92歳だった。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、光子さん。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2903M_Z20C13A1000000/
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【ズバリ!文化批評】故 安岡章太郎氏のルーツ「流離譚」[桜H25/2/8] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Nx-zMu7X8Sc
安岡章太郎 ウィキペディアWikipedia)より
安岡章太郎1920年5月30日 - 2013年1月26日)は、日本の小説家。
【生涯】
戦後、復学するも陸軍少将の父は敗戦により失職し、復員後も公職にはつけなかった。そのため、家族は収入のほとんどを失った。結核菌による脊椎カリエス結核性脊椎炎)を患い、大きな肉体的・精神的苦痛の中1948年英文学科を卒業(当時卒業を認めるとの案内が学校よりあったが、月謝と三田会費を支払えず、卒業成績証明書だけ貰って免状は授与されなかったという)する。その当時コルセットをつけながら、吉行淳之介阿川弘之と盛り場などを遊び歩いたと言う。
1951年『ガラスの靴』が芥川賞の候補作に選ばれ、文壇に注目される。1953年、選考委員の評価が真っ二つに割れながらも『悪い仲間』・『陰気な愉しみ』により、芥川賞を受賞し、1954年には脊椎カリエスが快癒(自然治癒したが、その為背丈が数センチ縮んだという)。創作活動に意欲的に取りくむ。『流離譚』では土佐藩での祖先の事跡を調査、『果てもない道中記』では中里介山大菩薩峠』を論じた。
1960年代初頭にロックフェラー財団基金アメリカ留学、ナッシュビルに滞在する。その後もアメリカに対する関心を深くもち、アフリカ系アメリカ人の先祖を探った作品『ルーツ』(アレックス・ヘイリー著)の翻訳もしている。
批評家としても文壇の評価が高かった安岡は、芥川賞をはじめ大佛次郎賞伊藤整文学賞選考委員も務めた。また学校国語教科書に、1955年著の「サアカスの馬(サーカスの馬)」が採用されている。

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文藝春秋 2013年4月号
蓋棺録 「安岡章太郎(やすおかしょうたろう)」 (一部抜粋しています)
作家・安岡章太郎は、脱落者としての視点から、人びとの運命を描き出した。
1953(昭和28)年、「陰気な愉しみ」と「悪い仲間」の2作で芥川賞を受賞する。いずれも劣等感と焦燥の交錯を精妙に描いて、その筆力が評価された。佐藤春夫は特に「悪い仲間」を称賛して、「新進にはちと過ぎた風格」とまで評した。
20(大正9)年、高知県に生まれる。父親は陸軍獣医で、勤務地が変わるたびに転校した。旧制東京市立第1中学時代には、「素行」がなにかと悪く、国漢の教師の家に預けられたこともある。
このころ映画に夢中になり、学生服で『キネマ旬報』を買いに本屋に行き、「旬報ください」といったところ、『受験旬報』を渡されたという。旧制高校の入学試験に3年続けて失敗して、ずるずると予備校に通い続けたが、当時の仲間に古山高麗雄がいた。
ようやく41年に慶応義塾大学の文学部予科に入学したものの、講義にはほとんど出席せず、同人雑誌を創刊。内閣情報部から呼び出され止めろと叱責される。44年、東部第6部隊に入営して満州に送られ、革靴で殴られる軍隊生活が続いた。「僕は、ここで軍隊を語ろうとは思わない」。
福音して慶応の英文科に籍を置いたが、脊椎カリエスに苦しむ。病床で「ガラスの靴」「陰気な愉しみ」などの作品を書き、51年に「ガラスの靴」が芥川賞の候補となる。このころ、三浦朱門庄野潤三吉行淳之介など「第3の新人」と知り合った。
59年に書いた『海辺の光景』が、翌年、芸術選奨野間文芸賞を受賞して、安岡への評価は一気に高まる。江藤淳は『成熟と喪失』のなかでこの作品を取り上げて、母親の偏愛にとらわれる主人公と、成熟を拒否する戦後日本人とを重ね合わせて論じた。
同年、ロックフェラー財団の招きでアメリカに行き、南部の街ナッシュビルで暮らした経験は、その後の活動に大きな影響を与えた。「私はすこぶる日本人的な日本人であることを、いまさらながらのように痛感する」。
63年、ソビエト作家同盟の招待で、小林秀雄とともにソビエトを旅行し、チェコスロバキアをへてフランスでしばらく滞在。68年にもアメリカ、メキシコを旅行し、70年にはケニアタンザニアなどを訪れている。
小林秀雄に「歴史を書いてみてはどうか」と言われて、76年から安岡家のルーツをたどる『流離譚』の連載を開始。また、80年には『僕の昭和史』を書き始める。この自伝も大部なものとなった。
「戦争で失われた何ものかをいまも追い続けており、僕の昭和史は終わっても、”戦後”は終わりそうにない」。

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