じじぃの「科学・芸術_141_ポピュリズム・慰安婦像問題」

これこそ人種差別!在米韓国人による在米日本人へのいじめ【山本優美子】 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=s7V7VQg2ay4
各地に次々と設置される従軍慰安婦

韓国の「米軍慰安婦」を英BBC報じる 韓国政府による「積極的な関与」があった 2014/12/1 J-CASTニュース
韓国における「米軍慰安婦」に海外メディアが注目し始める中で、今度は英BBC電子版がこの問題を取り上げた。米兵を相手にした売春行為は、韓国政府による「積極的な関与」が背景にあったという当時の慰安婦の主張を紹介している。
http://www.j-cast.com/2014/12/01222152.html?p=all
慰安婦像問題を“第三者の目”で考察「“極端な声”の主張に影響されて日韓関係を考えるのは危険」 週プレNEWS 2/9 Yahoo!ニュース
2015年12月に歴史的合意を果たした日韓の「慰安婦問題」。
しかし、釜山では新たな「慰安婦像」が設置され、日本政府が対抗措置として駐韓大使を一時帰国させるなど、ますます両国の関係は悪化の一途を辿っている。
─この先、日韓関係を改善するためには、何が必要だと思いますか?
マッカリー 忘れてはならないのは、日本で嫌韓運動を繰り広げている「在特会」のような人たちが現実には多くの日本人の気持ちを象徴しているのではないのと同じように、韓国で各地に慰安婦像を立て続けている市民団体のような考え方が、必ずしも一般の韓国人の日本に対する感情を反映しているわけではないということです。
日本でも韓国でも、こうした民族主義的な、あるいはポピュリスト的な人たちが政治に強く働きかけようとしているけれど、それはどちらの国にとっても「ごく一部の人たち」の声であって、彼らの主張する極端な対日観、対韓観を鵜呑みにして日韓関係を考えることは非常に危険なことだと思います。それは日韓双方とも「普通の人たち」の相手国に対する印象や考え方とは大きく異なるものだからです。
そして、慰安婦像を巡る問題が膠着状態に陥っているのも、こうした日韓の「極端な人たち」の影響が大きいように感じます。日韓両国がそうした「極端な声」に引きずられることなく、もっとお互いを信頼し、尊重する姿勢で取り組まなければ、この問題の解決は難しいのではないでしょうか。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170209-00079838-playboyz-pol
ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か』 水島 治郎 中公新書 2016年発行
グローバル化するポピュリズム (一部抜粋しています)
ポピュリズム政党の躍進は、既成政治に対する不満の高まりを示す点で、デモクラシーの「危機」を示すものではある。ただ同時に、ここまで見たように、ポピュリズム政党が既成政治に対する不満を抱く人々に対し、その不満を表出する経路となるのであれば、むしろ有用な安全弁であるかもしれない。またポピュリズムが「タブー」を破り、正面切って持ち出す問題提起を受けて、国民的な論争が展開され、結果として政治に対する信頼が回復されるのであれば、それは意味があるともいえる。
とはいえ、その安全弁が、本当に期待されたように作動するかどうかは定かではない。
2016年、フィリピンの大統領に当選したロドリゴ・ドゥテルテは、その過激な発言で「フィリピンのトランプ」と呼ばれ、東アジアに現れたポピュリズム的指導者として注目を集めた。その彼は大統領就任後、麻薬犯罪の容疑者などの殺害を容認し、その結果、警察による「超法規的殺人」が全土で繰り広げられる事態となった。しかしこの人権無視と批判される強引な手法にもかかわらず、ドゥテルテ大統領には民衆の強い支持が寄せられている。
既成政治に対する批判、不満の表明は、それが法治国家の枠に収まる限りにおいて、意味を持ちうる。しかし実際には、安全弁だと思っていたポピュリズムが、かえって制御不可能なほどに水を溢れさせるリスクもある。
現代のデモクラシーは、ポピュリズムを巧みに使いこなせるほど成熟しているといえるのか。慎重な見極めが必要だろう。
ポピュリズムは、「ディナー・パーティの泥酔客」のような存在だという。
上品なディナー・パーティに現れた、なりふり構わず叫ぶ泥酔客。招くべからざる人物。その場の和やかな雰囲気を乱し、居並ぶ人々が眉をひそめる存在。しかしその客の叫ぶ言葉は、時として、出席者が決して口にしない公然の秘密に触れることで、人々を内心どきりとさせる。その客はずかずかとタブーに踏み込み、隠されていた欺瞞をあばく存在でもあるのだ。
デモクラシーという品のよいパーティに出現した、ポピュリズムという泥酔客を、パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。まして手を取ってディナーへと導こうとはしないだろう。しかしポピュリズムの出現を通じて、現代のデモクラシーというパーティは、その抱える本質的な矛盾をあらわにしたといえないだろうか。そして困ったような表情を浮かべつつも、内心では泥酔客の重大な指摘に密かにうなずいている客は、実は多いのではないか。