「水俣病(みなまたびょう)」 を発症した患者たち 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GZXuntHBq04
武内忠男のオリジナルTシャツ
武内 忠男(たけうち ただお、1915年11月22日 - 2007年5月24日)は、日本の医学者、熊本大学名誉教授。大分県出身。
1941年、満州医科大学を卒業。1950年、熊本大学医学部病理学教室に招聘され、一貫して病理学の研究と後進の育成に努めてきた。
http://up-t.jp/info.php?type=item&id=9910000640181&PHPSESSID=q240cgecd2jt351um8h3hvmoa6
文藝春秋 2017年4月号
「明治百五十年」美しき日本人 私を捨て公のために生きた50人
武内忠男 水俣病研究に懸けた生涯 【執筆者】衞藤光明(元国立水俣病総合研究センター所長) (一部抜粋しています)
熊本県水俣市で、手足のしびれ、ふるえ、脱力、視野が狭くなる、耳が聞こえにくい、言葉をはっきり喋れないという症状を訴える患者の公式発見は、1956(昭和31)年5月1日のことです。
この奇病は当初、伝染病ではないかとも言われ、原因を巡って社会的な混乱も招き、果てには、差別問題にまで発展しました。結局、国が公害認定したのは、1968年。発生から12年も経過していました。
実は、1956年に患者が確認されてから3年後に早くも真実に迫っていた研究者がいました。
その人こそ、私の師、熊本大学医学部教授(当時)の武内忠男さん。武内さんはこの病に「水俣病」と名付け、その原因を究明したのです。
武内さんは徹底した現場主義者。現地に赴き、亡くなった患者をはじめ、似たような症状のネコ、カラス、ネズミ、水鳥に至るまでを綿密に解剖し、原因特定を急ぎました。
水俣病の原因究明の決め手となったのは、海外の文献でした。ドイツ語とロシア語に精通した武内さんは海外の文献を渉猟し、その過程で、有機水銀を使用する労働者に見られる有機水銀中毒症ハンター・ラッセル症候群について書かれたドイツ語の論文を見つけました。ハンター・ラッセル症候群の患者の大脳や小脳の病変が水俣病と酷似しており、その原因は有機水銀でした。
――水俣病も、汚染された水俣湾の魚介類を食べることで発症する症状ではないだろうか。
武内さんはこのような結論に至ります。そして、1959年熊大研究班は、水俣病の原因は有機水銀だと公表するのです。汚染源としては、以前から日本衛生学会が疑っていたチッソ(新日本窒素肥料)水俣工場である可能性が濃厚になりました。
ところが、チッソは真っ向から否定。さらに誰の意向が働いたのか、「有毒アミン中毒説」など攪乱させる情報が流布されます。
しかし、武内さんはそれを意に介せず、水俣病の正体を突き止めるために解剖と分析を重ね続けました。そして、1968年、厚生省(当時)が水俣病はチッソ水俣工場から出たメチル水銀化合物が原因だと発表したのです。
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しかし、1973年に朝日新聞が有明海に第3水俣病、有明海でも患者10人」と報じたことで、武内さんの運命は一変します。1965年に新潟県阿賀野川付近で確認された新潟水俣病、通称「第2水俣病」に次いで、福岡県大牟田市の有明地区の住民に水俣病と類似する症例が見つかった、と報じられたのです。
第3水俣病の発覚は、他メディアも後追いで取り上げ、社会騒動になりました。報道の直後、有明の漁師たちが長靴姿で武内さんの研究室に「あなたのせいで魚が売れなくなった」と怒鳴り込んできたこともあります。しかし、武内さんは丁寧に説明し、漁師たちと酒を酌み交わし、取れた魚を一緒に食べて、親身になり、最終的には仲良くなりました。
そして、第3水俣病の原因究明を進めようとしていた矢先のことでした。武内さんの所属する熊大が、水俣病研究班を葬ろうとするような動きをみせます。当時の熊大医学部長が「(社会問題を取り扱い過ぎると)アカデミックな雰囲気を壊すから、もう水俣病を大学に持ち込むな」との考えを持っていたのです。そして、研究班は解体されてしまいました。武内さんを大学から放逐する意図まであったといいます。最終的に武内さんは、熊本県水俣病認定審査会会長の職を辞することになりました。
武内さんは当時、京都大学医学部から教授として招聘されていましたが、「自分が逃げたと思われるから」とその誘いを断固拒否し、終生熊本に留まりました。
武内さんの人生を一変させた「第3水俣病報道」でしたが、あれ以降、水銀農薬などに規制がかけられ、全国の河川や海がキレイになったことを「せめてもの救いだ」と喜んでいたのを思い出します。