じじぃの「人の生きざま_512_石牟礼・道子(作家)」

石牟礼道子苦海浄土』刊行に寄せて 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=n7VB2U4kA1M
日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第6回 石牟藎道子 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UA35VnzZ-3Y
石牟礼道子

100分 de 名著 名著58 「苦海浄土」 第2回 近代の闇、彼方の光源 2016年9月12日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光礒野佑子 【ゲスト】若松英輔(批評家)
水俣病」の真実の姿を世に知らしめようと書かれた名著「苦海浄土」。石牟礼道子がとりわけこだわったのは、言葉すら発することができなくなった患者たちの「声なき声」だった。
第2回は、近代産業社会が解放してしまった人間の強欲、自然をことごとく破壊しても何かを成し遂げようとする人間の業といった、「近代の闇」と向き合うすべを学んでいく。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/58_kukai/
日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第6回 石牟藎道子 2015年1月17日 NHK
作家・石牟礼道子、87歳。『苦海浄土』で水俣病を文明の病として描き、日本の近代を問うてきた。
その原点は、水俣の美しい自然と人々に囲まれた幼時の記憶だ。代用教員だった戦時中、兄を沖縄戦で亡くし、終戦で180度変わった教育を体験。「戦災孤児」を題材に、昭和21年最初の短編を書く。その後、筑豊を拠点にした「サークル村」に参加し、詩人・谷川雁や作家・上野英信森崎和江らと交流。さらに「女性史学」を提唱した高群逸枝に大きな影響を受けた石牟礼は、主婦として、近代以前から続く市井の人々の暮らしを描き続けてきた。「不知火海総合学術調査団」で行動をともにした歴史学者色川大吉さんや、「水俣病研究会」に参加した法学者・富樫貞雄さん、漁師・緒方正人さん、そして息子の石牟礼道生さん、さまざまな関係者の証言と、膨大な創作資料から、石牟礼道子の知の軌跡を描いていく。
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/past/
石牟礼道子 ウィキペディアWikipedia)より
石牟礼 道子(いしむれ みちこ、1927年3月11日 - )は、日本の作家。
熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始。1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退。

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苦海浄土――わが水俣病――』 石牟礼道子/著 講談社 1969年発行
もう一ぺん人間に (一部抜粋しています)
猫たちの妙な死に方がはじまっていた。部落中の猫たちが死にたえて、いくら町あたりからもらってきて魚をやって養いをよくしても、あの踊りをやりだしたら必ず死ぬ。
猫たちの死に引きつづいて、あの「ヨイヨイ」に似た病人が、1軒おきくらいにひそかにできていた。中風ならば老人ばかりかかるはずなのに、病人はハッダ網のあがりのときなど、刺身の1升皿くらいペロリと平らげるのが自慢の若者であったり、8ヵ月腹の止(とどむ)しゃんの若嫁ごであったり学校前の幼児であったりした。止しゃんの嫁ごときは湧き水でゆきもよく洗濯が一緒になることがある。
おら、今度の妊娠には足のほろうなって、片っ方に片っ方の足の引っかかって、ほんに恥ずかしかごと転んでばっかりおるとばい、脚気やろか、ほら、洗濯物の手の先にマメらん、とその嫁御はいうのである。 えらいこんわれもゆっくりものをいうようになったなあと思って、見ると、止しゃんの嫁ごは前を大儀そうにつくろいもせずにぼんやりとして、それが水にうつって目だけがかっとみひらいているのである。あの嫁ごもヨイヨイ病じゃなかろか、このごろ、前もあっぽんぽんにして仕様んなか嫁ごじゃ、と、この前、ゆきは茂平に話したことがあったのである。
「うちも、ヨイヨイ病じゃ、なかろ、か」
そうゆきはいった。
味わったことのないような不安が茂平を押しつつみ、2人はどちらからともなく、一緒になってからはじめて舟の上で、ながいことぼんやりしていた。
「ぬしが病気なら、ウインチより医者どんが先じゃ」
と茂平はいい、ふたりはつれながら錨を揚げ、櫓をとった。
村の病院では、別に悪いところはなかごたるが、まあ栄養のちいっと足りんごたるけん、身につく物は食べてみなっせ、ということだった。手足がなんとなくしびれて、よくつまずくのは皆の症状だったが、梅雨前の雨がきまぐれに寒いゆえかもしれないし、それに近ごろはアメリカからも支那からも放射能というものも降ってくるというから、用心したことに越したことはない、と2人はいい合ったが、口のまわりの筋肉がなんだか鈍く張っていて、ゆきはものがいいにくく、唇に指を当ててみるが指に唇が触れる感じも両方から鈍く心細くへだてられているのである。
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猫のいなくなった部落の家々に鼠がふえた。
台所といっても大方が窓もない土間の隅に水瓶がひっそり置かれ、水瓶の陰に鱗のこびりついた洗い桶があり、茶碗を置く棚が申しわけに外につきだしてあるくらいだし、鼠たちは遠慮なしに赤土でこねたへっついの上にかけあがり、鉄鍋の上を通り水瓶の縁に飛び移り、吊るされた鈎(かぎ)の手に飛んで伝って、手籠の中に入ったりするのである。吊りさげられた手籠の中には、ゆでたじゃがいも食べのこしの薄皮などが入っていたりするのである。鼠たちはすぐそのような土間から石垣道にくぐり出た。おぼろな月明かりの道を横切り、石垣をくぐって舟へ飛んで、手ぐりの釣糸やうず高く積まれてひさしく使わない網などを片っ端から噛んだ。ひたひたと打つ夜ふけの波の間に、カリリ、カリリ、と石垣にそってつながれている舟のあちこちで、夜ごとに音がするのである。舟たちは曳き網をながくのばして、鼠を逃れていた。