じじぃの「科学・芸術_125_ルーシ国家・タタールのくびき」

Russians have Tatar-Mongolian genes 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DuqMvJZdwxc
モンゴル軍の襲来

Tatar face

ロシア②ー「タタールのくびき」の功罪 2014/3/28 Yahoo!ブログ
しかし、13世紀に入るとはるか東方から強大化したモンゴル帝国が襲来、1240年キエフルーシはあっという間に全域が呑み込まれ、
以来200年以上にわたってロシアはモンゴル族の隷属下に置かれることを余儀なくされてきた。
これが「タタールのくびき」で、くびき(軛)とは牛馬をこき使うときに用いる首かせ(写真)のことである。
http://blogs.yahoo.co.jp/hsm88452/45458328.html
モンゴルに支配されていたロシアのイヴァン大帝 いかにして「タタールのくびき」から脱したか? bushoojapan
ザックリといいまして、ロシア史は以下のような流れとなっております。
①現在のウクライナベラルーシ・ロシア西部にスラヴ人が定住するようになる

②9世紀あたりから小さな国がいくつかでき、自分たち(この地域)を「ルーシ」と呼び始める

キリスト教正教会)とキリル文字が伝わる

キエフ大公国を中心に一度まとまるがすぐに分裂

⑤モンゴルに侵略され、その支配下になる
http://bushoojapan.com/tomorrow/2016/10/27/86337
『ロシアの歴史を知るための50章』 下斗米伸夫/著  明石書店 2016年発行
タタールのくびき――異民族支配のもとで (一部抜粋しています)
ルーシ国家は13世紀の前半、国家の存亡にかかわる大変動をこうむった。1237年からのバトゥ=ハン率いるモンゴル勢の北東諸都市への侵攻、1240〜1241年の南方キエフからガーリチ、ヴォルィニ公領への来襲は壊滅的な被害をルーシに与えた。ウラジーミル、スーズダリ、キエフなど、それまでのルーシ諸公の政治的中心だった都市が、次々と破壊。占領された。その後200年以上にわたって、モンゴル(キプチャク・ハン国及びその継承国家)へ定期的な献納と軍役・使役の提供を強いられる体制が続いた。諸公が分立しながらも独立していたルーシ国家は、モンゴルを宗主国とする従属国となったのである。
モンゴルの支配を最も直接に受けたのは、ヴォルガ下流サライなど、ハン国の根拠地に近い、ウラジーミル、トヴェーリ、モスクワなどの北東ルーシだった。この地の諸公は服属のしるしとして、ハン国への参勤を頻繁に繰り出した。ウラジーミルのヤロスラフ公は1243年と1246年に、バトゥの本営サライと大ハンの首都カラコルムまで出向いている。歴代のハンは、訪問したルーシの公に領地支配を公認する「特許状」を与えたが、それは「ルーシの大公」として、諸侯のなかの長上者を設定する意味も持っていた。そのため、北東ルーシの諸公は競ってハン国のお墨付きを得ようとした。とくにトヴェーリとモスクワ公の間の争いは苛烈だった。モスクワが最終的にルーシを統一することができた主要な要因の1つとして、歴代のモスクワ諸侯が、ハンの公認を得るために巧みに振る舞ったことをあげることができる。
モンゴル勢の第2波の遠征で大きな被害を受けた南西ルーシも、その後はモンゴルの支配を受け入れた。ただし、ハン王国の拠点であるヴォルガ川下流域から遠くあったために、支配が強く及ぶことはなかった。また、その後のリトアニアの擡頭によって、モンゴルよりも西方からの影響をより強く受けるようになる。1316年にリトアニアの君主となったゲデミナスは、南西ルーシの地に勢力を伸ばし、ルーシ諸侯との外交や通婚によって、実質的な支配を及ぼすようになる。彼を始祖とする王朝はリトアニア大公国として拡大を続け、アルギルダス公(在位1345〜1377年)の時代には国境を黒海北岸まで広げ、かつてのキエフ、ヴォルィニ、ガーリチの公領のほとんどを勢力下におさめるに至った。
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文化的にも、モンゴル支配時代があったことから、ロシアはヨーロッパとは異なった歴史的な歩みを行い、「アジア的」要素をそなえた存在だという見方が定着した。ヨーロッパ中心主義の立場からすれば、それはロシアの「後進性」を意味しており、「ロシア人を一皮剥けばタタール人が出てくる」のことわざに代表されるそのようなロシア民族観は、その後の知識人たちにも内在化されて、現在に至るまでコンプレックスの原因となり続けている。
モンゴルからの文化的な影響を積極的に評価する見解もある。例えば、モンゴルの支配によって、ルーシ=ロシアは東方に開かれ、民衆の間でも交流が広がり、従来の西方的な要素(スラブ語、キリスト教など)と融合して、文化的な基層において多様性を許容する便化を形成したというものである。
なお、モンゴルの支配の影響についてとくに注目すべきは、モンゴルの支配下にあったルーシが、宗主国からその支配的システムを学び、その後、モスクワ国家からロシア帝国へと国家形成をしていくなかで、自らモンゴル的な専制体制を築いていったという論である。