じじぃの「科学・芸術_97_江戸の寺子屋・就学率80%」

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https://www.youtube.com/watch?v=PXNlGa6dhvY
江戸の寺子屋風景 (edo-g.com HPより)

1800年ごろの日本人の識字率は、世界一だったと友人が言っていましたが、本当なのでしょうか? 2013/3/31 Yahoo!知恵袋
回答
本当です。江戸などの大都市では寺子屋が普及していて、就学率が90%以上あり、町人でも70%くらいの識字率があったようです、武士階級はほぼ100%です。全国の平均でも50%はあったと思われます。
当時の先進国イギリスで20〜30%、フランスでは10%、中国など東南アジアではさらに低かったと言われています。日本人の識字率の高いことは幕末に来日した多くの外国人が証言していますので間違いないでしょう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12104827202
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
江戸では80%を超えた寺子屋就学率 (一部抜粋しています)
江戸時代の庶民生活を描いた式亭三馬の『浮世風呂』に次のような情景が出てきます。朝風呂に来ている母親を娘が呼び戻しにきて、ついでに弁当を作ってくれるよう、せがんでいるのです。母親は困ったような顔をしながらも、まんざらではない様子です。娘は弁当を持ってどこに行きたいのでしょうか。実は寺子屋(関東では手習師匠)なのです。
寺子屋は、18世紀以降全国的に発達した庶民の初等教育の場です。最盛期には3万ヵ所を超え就学率は全国平均で30%、江戸では80%を超えました。身分差別の激しい中、天文・地理学者の西川如見が「百姓嚢(ぶくろ))の中で「百姓といへども、今の時世にしたがひおのおの分限に応じ、手をならひ、学問といふ事を人に聞きて……」と学問の必要性を当然のように説く時代になっていたのです。
早い子供たちは5歳を過ぎると親に連れられ、師匠に入門します。筆や机などは持ちこみでした。登校時刻がまちまちだったので授業は個人指導が当たり前でした。「いろは」の読み書き、次いで算盤算術・行儀作法などの実用的なことを習いました。師匠によっては、漢字の素読・歴史・天文学・芸能、女児には裁縫もありました。女性の師匠も多かったのです。
教科書は「往来物」と呼ばれました。最も広く使用された『庭訓往来』の名に由来します。商家の子には『商売往来』が、職人の子には『番匠往来』などが使われました。往来物は幕末までに数千種が編まれたといいます。このような図書の出版・普及は世界的にかなり早いものでした。
また、滝沢馬琴1800年に編んだ『国尽女文章』などは、女子の興味・関心を引くよう姫君の婚礼話などを挿入する工夫が見られました。このような細かな配慮は後世になるほど工夫されるようになり、幼年向けの絵入り本も登場しました。
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楽しい行事もありました。正月に書き始めがあり、汁粉餅が出されます。4月、8月には席書(せきがき)という習字の試験が行われ、赤飯が配られました。桜のころには花見を行う所もありました。子供たちは学問ばかりでなく社会的な交わりの勉強もしたのです。
子供たちは寺子屋を12歳ぐらいで卒業すると、社会の第一線で働きました。それは幕府が文書で政策を伝達するのに役立ちました。と、同時に倒幕運動を組織的に行うさいも力を発揮し、維新後の政策も早く浸透しました。明治維新が成功した背景には、寺子屋で学んだ多くの人々の力があったのです。