じじぃの「人の死にざま_1745_イザべラ・バード(旅行作家・日本奥地紀行)」

Travels in the Victorian danger zone with Isabella Bird 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=03f1GZL_WJU
11.イザベラ・バード日本紀行11 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-PKwyMYofC8
イザベラ・バード

山形県置賜地方 (jacom.or.jp HPより)

イザベラ・バード日本紀行 (上) 講談社学術文庫 1871) 文庫 2008年 amazon
一八七八年、横浜に上陸した英国人女性イザベラ・バードは、日本での旅行の皮切りに、欧米人に未踏の内陸ルートによる東京‐函館間の旅を敢行する。
苦難に満ちた旅の折々に、彼女は自らの見聞や日本の印象を故国の妹に書き送った。世界を廻った大旅行家の冷徹な眼を通じ、維新後間もない東北・北海道の文化・習俗・自然等を活写した日本北方紀行。

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イザベラ・バード ウィキペディアWikipedia)より
イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年天保2年)10月15日 - 1904年(明治37年)10月7日)は、19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。ファニー・ジェーン・バトラー(英語版)と共同で、インドのジャンムー・カシミール州シュリーナガルにジョン・ビショップ記念病院を設立した。バードは女性として最初に英国地理学会特別会員に選出された。1881年明治14年)に妹の侍医であったジョン・ビショップと結婚し、イザベラ・バード・ビショップ(Isabella Bird Bishop)、ビショップ夫人とも称された。
●日本奥地紀行
『日本奥地紀行』では当時の日本をこう書いている。
私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている。
他には新潟を「美しい繁華な町」としつつも、県庁、裁判所、学校、銀行などが「大胆でよく目立つ味気ない」としたり、湯沢を「特にいやな感じのする町である」と記したり、また黒石の上中野を美しいと絶賛したりしている。

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百姓たちが時代を創る 山形置賜自給圏の挑戦 2014年10月22日 JAcom

米沢藩上杉鷹山(1751 - 1822年)の治世で知られ、また明治の初期、イギリスの旅行作家・イザベラ・バードに「東洋のアルカディア(理想郷)」と言わせた山形県置賜地方長井市で米づくりと自然養鶏を営む菅野芳秀さん(64)らは、自給を基本とした当時の理想郷の再建を目指す。それは閉鎖的な理想郷ではなく、外に門戸を開き、そこから、新しい社会のあり方を示そうとする。これが、食料・エネルギーの自給を基本とした「置賜自給圏」である。
上杉鷹山は、「国は国民のために存在・行動するのが君主である」として、「国」が公的存在であることをしっかり認識していた。当時の「国」を支えていたのは百姓である。菅野さんと「置賜百姓交流会」の仲間たちは、「百姓」たちが主役の「国」(地域)づくりに挑戦する。
置賜平野の散居集落(飯豊町)。イギリスの女性旅行家イザべラ・バード(1831 - 1904年)は、明治時代の東北地方を旅行し「日本奥地紀行」を書いた。そのなかで置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」(古代ギリシャの伝承上の理想郷)」と評した。飯豊町の「散居」風景は平成5年の「第1回美しい日本のむら経験コンテスト」最高賞の農水大臣賞を受賞した。(画像参照)
http://www.jacom.or.jp/noukyo/tokusyu/2014/10/141022-25621.php
『韓国人に教えたい 日本と韓国の本当の歴史』 黄文雄/著 徳間書店 2013年発行
堂々と歴史捏造に励む韓流ドラマ (一部抜粋しています)
日本は江戸時代、すでに市場経済貨幣経済が成立していたが、朝鮮では日本の商人に近い負褒商(行商人)がいても、市場経済は未成立か、不完全であった。江戸時代の日本は基本的には稲作で、石高制だったが、朝鮮では稲、麦、雑穀物で、1反の平均収穫量は日本の約3分の1にすぎなかった。朝鮮の農民が貧しい理由は多々あるが、基本的には、その収穫量からくるものが多い。「日帝36年」以後は、農政と農法により、飛躍的に米の生産量が増え、人口も倍増した。
国史では、農民や匪賊の反乱が絶えなかったが、朝鮮半島では、東学党の乱(1894年)以外に農民たちには一揆を起こす力さえなかった。しかも、農民の多くを占める奴婢(ぬひ)の売り買いもよく行われていた。
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そうしたことは、20世紀初頭に朝鮮を訪れたアーソン・グレブストの『悲劇の挑戦』や三木栄著『朝鮮医学史疫病史』などに書かれている。
これらの韓流の歴史ドラマには、非常に色鮮やかなチマチョゴリを着た女性たちが出てくる。だが、じつは半島で占領を産しなかったので、高価な染料で染めた色つきの服や調度品を持つのは、豊かな両班に限られていた。だから、すべての女官や街の女性たち、さらにはファン・ジニのような身分の低い妓生(キーセン)までもが色彩豊かな朝鮮服を着ているのは、史実に反している。
現代の韓国人が極菜食の原色が好きなのは、このような理由からくるので、色に飢えているから色が富の象徴になるのである。歴史ドラマで見る極菜食だらけの映像は、夢だけの表現であって、ほとんど史実に反するものばかりだ。実際には当時、ほとんどの朝鮮人は白色の朝鮮服だったのである。一般の朝鮮人が染物の服を着られるようになったのは、日本統治の時代に入ってからである。
また、朝鮮服が白中心あるいは白一色であることについて、「清潔好きだから」と強弁する韓国人がいるが、こういうウリナラ自慢も史実に反している。当時の都である京城漢城)は世界一不潔な都市だったという評判が残っている。そのことは、19世紀末に朝鮮半島や日本などをはじめ世界を旅したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(時岡敬子訳、講談社学術文庫)などにも書かれている。
さらに李朝以前の朝鮮半島の街並みも、美化されすぎている。日韓合邦以前の半島には、道路らしき道路はなかった。人流と物流の必要がなかったからだ。