じじぃの「人の生きざま_704_オーガスト・ウィルソン(劇作家)」

August Wilson's Ma Rainey's Black Bottom Opens at the Mark Taper Forum 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xO8XUN3C8_I

オーガスト・ウィルソン―アフリカ系アメリカ人劇作家の巨匠―
オーガスト・ウィルソンは、1945年、ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれ、市内にあるヒルと呼ばれる黒人のスラム街で育つ。父親は、白人で、ドイツ系のアメリカ人であり、母親は黒人である。在籍者の過半数が白人である高校に通うものの、教師からナポレオンについてのレポートを盗作した疑いをかけられ、16歳で高校を中退することになる。
その後は、雑役夫の仕事をしながら、ピッツバーグの公立図書館で黒人の文学作品を読み続け、ラルフ・エリソン(Ralph Ellison, 1914−94)やラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902−67)そしてジェイムズ・ボールドウィンの作品に影響され、20代で詩作を始めた。また、伝説的とも言えるブルース歌手べシー・スミス(Bessie Smith,1894/98−1937)のレコードを初めて聴いて以来、ブルースがウィルソンの文学的感性に大きな影響を及ぼすようになった。
ウィルソンの作品の黒人の登場人物には、アメリカ南部で白人から受けた肉体的・精神的暴力がトラウマになって、北部の都市に移住あるいは移動した後もその傷を克服できない者が多い。
その顕著な例が、『マ・レイニーの黒い尻』のレヴィー(Levee)や『ジョー・ターナーの去来』のルーミス(Loomis)である。
http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/203/1/KJ00005441719.pdf
『/ヒロインから読むアメリカ文学 板橋好枝/編 勁草書房 1999年発行
ブルース、このかくも美しく、悲しい歌 ウィルソン『マ・レイニーのブラック・ボトム』 (一部抜粋しています)
20世紀の黒人の経験を10年ごとに描こうとしたオーガスト・ウィルソンが、第1作目に1920年代を選んだのは、べッシー・スミスのレコードを聞いてブルースの素晴らしさに目覚め、ブルースこそ黒人文化のもっとも重要な部分だと考えた彼としては当然のことだったかもしれない。なにしろ20年代とは、アメリカ中で黒人文化が大流行した時代だったし、黒人たちがこぞってべッシー・スミスのマ・レイニーのような古典ブルース歌手に熱狂した時代だったのだから。1910年代から「大移動」の名で呼ばれるように、南部から多くの黒人たちが北部の大都市に移り住むようになり、20年代には、第一次世界大戦後の経済的反映と開放感のなかで、シカゴ、ニューヨーク、そしてカンザス・シティなどの諸都市に、ジャズやブルースやダンスに根ざしたみごとな黒人文化が花開いた。
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『マ・レイニー』は、20年代の大歌手、マ・レイニーが「マ・レイニーのブラック・ボトム」を録音する現場をとおして、激しいレイシズムのなかで苦悩する黒人ミュージシャンの姿を描いた作品である。とくにマ・レイニーの到着が遅れる間、バンドのメンバーたちが次々と自分の身の上を語るうちに、レイシズムに侵されたアメリカの歴史が浮かびあがってくる。
『マ・レイニー』の中心には、この作品の2人の重要な登場人物であるレヴィとマ・レイニーの対立がある。この対立はいったい何を意味しているのか。まずレヴィの検討から始めたい。レヴィは新しい音楽の創造という野心に燃えている血気盛んな若手のジャズ・トランぺッターである。彼には、ちょうどこの頃、革新的な吹き込みを次々と世に送りだしてジャズ界を神官させつつあったルイ・アームストロングを思わせるところがある。この作品では、「マ・レイニーのブラック・ボトム」の吹き込みが行なわれたのは1927年の3月ということになっているが、実際にマ・レイニーがパラマウントにこの曲を吹き込んだのは、ディスコグラフィで見るかぎり27年の12月である。そしてこの頃は、ルイ・アームストロングも含めてシカゴのジャズが成熟の頂点に達しつつある時期、あるいはそろそろ衰退の気配が見え始める頃であった。
レヴィはマ・レイニーのスタイルをさして、ミンストレル・ショーの伝統を引きずった、古くさくて、黒人にとっ屈辱的手なものだとして批判し、自分は新しい時代の自立した黒人として新しい音楽の確立をめざそうとする。一方、マ・レイニーは、レヴィの伴奏における饒舌なまでのインプロヴィゼーションに憤慨し、メロディどおりに吹くよう頼むという場面がある。この場面は、べッシー・スミスがルイ・アームストロングと共演した際に、まるで主役を食いちらかさんばかりに雄弁なソロを吹くサッチモの伴奏を嫌がったというエピソードを連想させる。レヴィとマ・レイニーの対立には、黒人のミュージシャンとしての表現をめぐっての新・旧2つの言説が衝突する様子が見られるといってよい。