清原和博の凄すぎるホームラン 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RZoq50Fg0YI
清原和博が刺青、薬物疑惑も!離婚の原因? LAUGHY
●プロ野球のスーパースター
1967年8月18日生まれ
西武・巨人・オリックスなどで活躍したプロ野球選手。
番長の愛称で親しまれました。
ルーキーイヤーの最多本塁打や、通算サヨナラ本塁打歴代1位、通算本塁打歴代5位など、数々の記録を作ったホームランバッター。
2008年に現役引退。
http://laughy.jp/1425445633978102673
『別冊宝島』 2016年発行
運命の「KKドラフト」 その驚くべき裏舞台 (一部抜粋しています)
今年2月、薬物事件を起こし有罪判決を受けた清原和博。かつての甲子園スターが現在に到るまでに迎えた「転機」を辿っていけば、誰しもが「あの日」に行き当たる。
1985年11月20日。宿命の「ドラフト会議」のことだ。
80年代前半に空前の甲子園フィーバーを巻き起こしたPL学園。なかでも1年生から投打のエースとして活躍した桑田真澄と清原和博は、ともに数十年に一度の逸材として、プロのスカウトたちに注目される存在だった。
2人はいつも一緒だった。しかし、入団したい球団まで一緒だったことが、2人の絆を引き裂くことになる。
巨人が1位に指名したのは、早稲田大学進学を表明し、プロ入りは絶対にないと公言していた桑田だった。使命を信じて疑わなかった18歳の清原は絶望し、涙を流した。
あのとき、6球団が清原を1位指名した。たとえ巨人に入団できなかったとしても、巨人の1位指名という事実さえあれば、清原はその後、納得して自分の「運命」を受容していたかもしれない。
しかし、巨人は自分を指名してくれなかった。
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当時、巨人と桑田の間に「密約」はあったのか――との疑問についてはこれまで数々の検証が加えられてきたが、結論から言えば「密約」はあったと考えるしかない。それを裏付ける状況証拠は実に豊富だ。
しかし、清原はその「密約」について、これまで一度も桑田本人や、当時の王監督など関係者に「真相」を問い質したことはないのである。
一方で、西武からFA宣言によって巨人に移籍した1996年オフ、清原は巨人との入団交渉の席で、事務的に契約条件を切り出す当時の球団代表に対して、こんな言葉をぶつけている。
「その前に僕は心の整理をつけたいんです。そんな条件よりも、11年前のドラグとの時のことが僕の心の中ではまだ整理がついていないんです」(清原和博『男道』幻冬舎刊)
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ドラフトから11年後の1996年、清原はFA宣言によって巨人に入り、子供のころからの夢を実現させた。
あの日の「真実」を知りたい気持ちもある。しかし、面と向かって聞くことはできない。薄々、どういう事情だったかを分かってはいても「なぜ、桑田は本当のことを自分に言ってくれなかったのか」という思いを消すことはできない。
桑田も、たとえ真実を話したい気持ちがあったとしても、あのドラフトの真実は墓場に持っていくしかないのだろう。チームメートの清原が「巨人指名」を確信して大騒ぎしているとき、自分の希望というより、大人の事情で決まってしまった「巨人入り」のシナリオを、もし正直に打ち明けたらどういうことになるか。
それはそれで、ドラフト前からKKの絆は引き裂かれていたことだろう。巨人が同時に2人を指名することは不可能なのだから。